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思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
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2008年 10月 30日

わたしによるわたしからの脱却の不可能性という可能性

晴れ


「わたしは、もうわたしが嫌だ」と昨日書いたわたしは、しかし今日もわたしのままだ。

空腹感を覚えたり、大学院の授業がつまらないと感じたり、珈琲を飲んだり、……そうしているときは「わたしは、もうわたしが嫌だ」というような一種の自己相対化をすることはなく、「わたし」なるものを意識することもない。

だが、本を読んでいるあいだのふとした瞬間に、「わたしは一体何をしているのであろう」という意識が発生する。昨日のわたしと今日のわたしは同じはずなのに、昨日のわたしが感じた自己嫌悪にも近いような感情をほとんど忘れて食事をし、授業に出、珈琲を飲み、いまこうして本を読んでいるわたしとは一体何なのか。そのように思う。

気付いたのは、このようなときに理論や思想はあまり勇気をくれないということだ。勇気をくれる理論や思想をわたしが知らないだけかもしれない。だからいまある理論や思想に頼るのだが、いろいろ踏まえてみると、結局のところ、自分の心で感じるしかなく、自分の頭で考えるしかない、そういうことになる。だから自分の心の感度を上げ、頭の思考回路を働かせることになる。しかし、それで自分を納得させるような答えは出ない。そして自分を納得させるような唯一絶対の答えはないということに改めて気付く。そうだ、この世界に絶対の安心を与えてくれるような回答はないのだ。理論にもないし、思想にもない。学問はすべて仮説ではなかったか。そこで示される理論や思想は、たしかに物事の一面を照らし出してくれる。しかし、それはわずか一面であり、その一面も暫定的なものにすぎない。だから何かひとつのものの見方・考え方にもたれかかって安心することはできない。「学問はすべて仮説である」という主張すらも仮説かもしれない。だから常に自分の心で感じ、自分の頭で考えているしかない。あるいはそれこそが、つまり、「自分の心で感じ、自分の頭で考えること」、それこそが世界が投げ掛けてきたさまざまな問いかけの唯一絶対の回答なのかもしれない。

だから、やっぱり自分で何とかするしかないんだと思うわけだが、それで勇気が出るわけではない。いまある世界に立ち向かっていこう、立ち向かわずともいまある世界で存在していこう、そうする勇気を「結局は自分で……」は与えてはくれない。なぜならば、「結局は自分で感じ、考えるしかないのだから、自分で感じ、考えてみた。その結果得られた答えは、この世界に唯一絶対の答えなどないのだから、自分で感じ、考え続けるしかない」ということになるからである。

これは、ある意味で徹底的な自己依存である。つまり、答えは「自分のなか」にしかない、という思い込み、だから自分の「内面」を徹底的に掘り下げようとする。そこに外部はないし、他者もいない。

それなら自分を外部に開き、他者に開こう。そうすれば何か変わったことが起こるかもしれない。

と思うのと同時に、自分を開いたときに出会う外部・他者と接触できるのはほかならないこのわたしであり、外部・他者を外部・他者として受け止めるのもわたしであり、だから外部・他者から多様な刺激を受容したとしても、その刺激はわたしの認識しうるかぎりの刺激でしかなく、また、いくら外部・他者に開いたところでそこからの刺激が収束するのはほかならないわたしであり、よって回答は「わたし」にしかないということにはならないか、とも思う。


圧倒的に異なるところから、圧倒的に異なる角度で、圧倒的に異なる時間で、わたしを刺激する何か――それこそが、と思う。

では、それは何か。

わたしは知らないし、知ってはならないのだ。


@研究室

by no828 | 2008-10-30 20:48 | 思索


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