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思索の森と空の群青

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2008年 12月 11日

みんな好きにやればいい

晴れ


授業での発表と研究会での発表が両方とも終わった。

9時30分から昨日作った授業のレジュメを直し、また、研究会用のレジュメを作りはじめたら、両者を作り終わるのが13時になってしまう。急いでプリントアウトし、不健康極まりないカップ・ラーメンを忙しく食べ、13時15分の昼休み終わりを待って事務室に行き、授業用のコピー・カードを借り、15部ずつコピーを取った。

授業用のレジュメで、昨日「一晩寝かせよう」と判断した「哲学と社会科学の関係やいかに!」の部分は、結局そのまま載せることにした。

13時45分開始の授業は、先生が会議ということで14時にずれ込み、だからそのあいだに新聞を読んだ。本の特集がはさまっていた。

授業では、検討した論文の内容と、それを受けてのわたしのコメントをたたき台にしながら議論が進められた。

議論は、「研究とは」「研究者とは」というテーマになった。

そのとき、お姉さんが自分の体験を語りながら泣いてしまった。

研究者は、研究者が決してわかりえない辛さを抱えている人を調査の「対象」と見なし、研究業績を上げるための「道具」として扱う。辛さを抱えている人からそのことを指摘されたら、それも辛い。「研究」というかかわり方でなければ、もっと別のかかわり方、寄り添い方があるかもしれない。もしかしたら「研究」であっても、別のかかわり方があるのかもしれない。しかし、わたしはそれを知らない。

わたしが「研究とは」「研究者とは」ということを強烈に考えはじめたのは、2005年の夏にバングラデシュに行ったときである。それは修士論文のための調査が目的であった。

首都ダッカでは、ストリート・チルドレンの子どもに食べ物やお金をせがまれ、わたしは何もせずに、何もできずに、そこをやり過ごした。こういうときどうすればよいか「わからない」というのが根本にありながらも、その上に「わたしは調査をしに来たんだ。人を助けるために来たのではない」という「研究者としての言い訳」を塗り重ねた。

ゲスト・ハウスに戻り、部屋のベッドに身を投げた。そして考えた。

「俺は一体何をしてるんだろう。誰一人助けられない。調査目的?調査が何の役に立つ?研究が何の役に立つ?研究なんて意味ないじゃないか?どうして俺は何の役にも立たない研究なんてしてるんだ?」

そのときは3週間弱バングラデシュにいた。そのあいだ、「研究って何だ、研究者って何だ、俺って何だ」ということを、ずっと、とくに夜、ベッドのなかで、何度も身体の向きを変えながら、考えた。

わたしは、修士論文を書いたら研究を止めよう、と思った。

青年海外協力隊に応募しようと思って資料を取り寄せた。説明会にも行った。虫歯も治した。

しかし、結局応募できなかった。

別世界に飛び込む勇気がなかったからだ。

研究にも、未練を感じた。「わからない」ということが根本にあるのなら、わかるまで考えようと思った。哲学なら、わかるためのヒントをくれるかもしれないと思った。

そうしてここまで来た。しかし、答えはまだ出ていない。まだわかっていない。余計にわからなくなったかもしれない。

「研究」なんて、そんな固有の領域はないし、「研究者」なんて、そんな固有のカテゴリーはない。最近はそう思う。あってほしいと思っていたが、研究者には(あるいは知識人には)固有の役割があってほしいと思っていたが、そのようなものはたぶんない。研究者だから、なんて肩肘張らずに、みんな好きにやればよく、それで社会は回り、時代は過ぎてゆくのだ。そのとき社会がちょっとでもよくなれば、時代がよくなればもっとよい。やけっぱちになって、ニヒリスティックになって、というわけではなく、素直にそう思う。

客観的に、なんて研究者は言うけれど、そんなのは無理だ。研究者は、とくに社会科学の研究者は、ある現象を研究対象に選び、「問題意識」を持った時点で、すでに単なる「現象」を「問題」として認識している。「現象」を「問題」にするには、価値判断をしなければならない。「それは問題だ」という言明は価値判断の結果なのだ。

「その問題はなぜ起こったのか」という問いは、だから2次的なものだ。その問いに客観的に答えることはできるであろう。しかし、そもそもなぜその問題を取り上げたのか、そこには何らの客観性もない。そこには主観しかない。好きや嫌いや、怒りや悲しみや、あるいは喜びや幸せしかない。

その主観に正直になればよい。その主観で行なった研究に、また別の主観が批判をし、その批判にまた批判がなされ、それで世界は、たぶん、よくなってゆく。

自分の主観にまずは頼る。しかし、それには頼りきらない。主観にできることはかぎられている。だから、その主観を開示する。誰かが何かを言ってくれる。主観が修正される。修正された主観で、また誰かに何かを言う。「コミュニケーション」って言うと、そこには当たり前の響きしかないかもしれないけれど、そのコミュニケーションにこそ、大切なものは宿る。

研究や研究者や理論を大そうなものとして見る必要はない。特別なものとして見る必要はない。

敬意は必要だ。敬意は、他者に対する敬意は必要だ。しかし、そこに過剰な、崇高な期待はしないほうがよい。敬意と期待は別ものなのだ。


@大学中央図書館

by no828 | 2008-12-11 21:13 | 思索


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