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思索の森と空の群青

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2009年 02月 20日

惑わずに生きるためには惑う必要がある、か

 朝、強めの雨が降っていたけれど、午後になって晴れてきた。いまではすっかり晴れた日の夕方である。

 
 ここのところ、惑わされたくない、と思うことが多い。が、惑ってしまう。「周りのことに惑わされず、自分のことをしっかりしなければ」と思うながらも、内面が揺らぐことがある。「たじろがずに生きよ」と言い聞かせながらも、心が微かに動く。これが厄介だ。まるっきり動いてくれたほうが楽だと思う。転換と呼びうるような心の動きであれば、むしろすっきりとしてよい。しかし、微かな動きだからこそ、もともとの心のありようを覚えており、そこからの動き、ずれ、偏差を感じてしまう。だからこそ、「あ、惑いが」とわかる。「揺らぐな」と言い聞かせる。

 そういえば、不惑が訪れるのは40歳だと孔子は言っていた。

 子曰、
 吾十有五而志于學、
 三十而立。
 四十而不惑、
 五十而知天命。
 六十而耳順、
 七十而從心所欲不踰矩。

(参考:『論語』(全訳注 加地伸行)、講談社(講談社学術文庫)、2004年、pp. 36-37)


 まだ惑わされよ、まだ惑え、ということなのか。惑うのだ、そしていろいろなものに自分の心をぶつけよ、そうすることで自分が成り立つのであり、40歳まではそれを続けよ、と。そういうことなのか。


 そういえば、「ハンナ・アレントも相対主義に陥る時期は人間にとって大切なものだ、と言っていたよ」と先輩も言っていた。すこし前になるけれど、「いやあ、惑いますねえ」と愚痴をこぼしたら、そう教えてくれた。


 ただ、惑いはつらい。惑いはきつい。

 「これだ」と思うところを疑うことなく邁進できたらよいのに、と思う。ただ、それは危険だとも思う。

 だからいろいろ考え、惑い、考えては惑い、「これか」と思いながらも「そうではない。こっちかもしれない」と試行錯誤し、そうしたうえで「これだ」というところに行き着く――それがもしかしたらちょうど40歳あたりなのかもしれない。

 惑いはむしろ必要だ、ということなのかもしれない。きついけれども、惑わずに生きるためには惑う必要がある、そういうことなのかもしれない。


@研究室

by no828 | 2009-02-20 16:52 | 思索


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