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思索の森と空の群青

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2009年 03月 19日

「おいおい、何かもう春の空気だぞ」から考えたこと

 研究室でお昼を食べてからちょっとだけ外に出たら、「おいおい、何だこの暖かさは。春じゃないか。このあいだまであんなに寒かったのに」という陽気で驚いた。

 春は嫌いだ。

 みんな浮き足立つから嫌いだ。

 「みんな浮き足立つから嫌いだ」と言っているわたし自身もたぶん浮き足立つから嫌いだ。

 浮かれた自分が嫌いだ――春が嫌いな理由はたぶんそこにある。


 大学構内は工事が続く。おそらく――というより間違いなく――今年度の予算の年度内執行のためである。

 うるさい。

 そんなところに電気を増やしても意味がないと思うのだが、というところに電気を増やしていたりする。

 無駄である。

 予算が余ったら大学院生に奨学金というかたちで現金を分配すればよいと思う。現金が無理なら図書券でもよい。あるいは院生の希望を聞いて、たとえばパソコンを購入して分配するなどすればよいと思う。

 一方でお金が余って使い道に困って仕方なく消費している人(法人含む)がおり、他方でお金がなくて困っている人がいる。

 制度なりシステムなりルールなりは、そこに生きる人のために作られたのではなかったか。
 こんなところで制度なりシステムなりルールなりは自律的に作動しはじめなくてよいのだ。誰か気概を持って、気骨を持って止めてほしいと願いながら、「願い」という他律的な行動に出ている自分が愚かに思える。

 工事を担っている人たちはどう思っているのか。無駄な工事だと思いながらも、仕事があり、収入になることを考え、黙して脚立に登っているのかもしれない。

 いわゆる公共工事を担ってきた人びとにとって、昨今の政治状況は好ましくないかもしれない。公共工事が減ることは、文字どおり死活問題になるからだ。と同時に、直接に公共工事を担うわけではないけれども工事があることによって生計を立てていた人たちもいる。

 たとえば、長期間にわたって公共工事に従事する人たちが泊まる旅館。

 わたしの叔父は福島の田舎で小さな旅館を経営しているのだが、そこは主に公共工事の人たちが泊まることで成り立っていた。叔父自身がそう言っていた。だから工事が減っている昨今は収入が減って厳しいとも言っていた(だから叔父は旅館の一角に小さな小料理屋を開き、日常的にお客さんに来てもらえるようにした)。

 だからわたしは、癒着や無駄があるから公共工事をなくせ、という正論に即座に与することができない。

 たしかにうるさいし無駄だと思うことも多々あるのだが、しかしこれがなくなったらこの人たちは――あるいは数多の「わたしの叔父」たちはどうなるのか、というところも考えてしまう。


 ベーシック・インカムということをこれまでも幾度か書いていたが、労働や所得や生という位相はきちんと考えるべきことだと思う。

 原理はお金ではなく生である。


@研究室

by no828 | 2009-03-19 14:38 | 思索


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