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思索の森と空の群青

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2009年 04月 27日

問題意識 3 ――「世界は広い」

 「国際社会を舞台にして教育というテーマで仕事がしたい、という思いをわたしに抱かせたのは、大きく2つの経験である。

 ひとつは、中学1年の夏に2週間弱という短い時間ではあったけれど、アメリカに行ったこと。
 もうひとつは、中学時代に両親や先生から「教育」の大切さを学んだこと、「だから教育は大切なんだ」という実感が得られたこと。

 この2つである。

 第1の点から書きたいと思う。が、あと3分で16時である」

と書いてからしばらく経ってしまった(参照:2009年2月26日エントリ「問題意識 2」)。

 あと3分で18時20分になるところだが、続きを書きたいと思う。

 第1に書いたように、わたしは中学1年の夏――1994年のことだ――にアメリカに行った。当時通っていた英語学校――この英語学校はわたしが通った私立幼稚園の園長先生が開いていたのだが――が主催した「第4回学習旅行」という名目でアメリカのオハイオ州とフロリダ州に行くというものであった。

 英語学校には小学校4年の途中から通いはじめた。友だちが数人通っていたこともあったが、英語に何となく惹かれたことのほうが通いはじめの理由としては大きく、自分から母親に「行きたい」と言った。たしか授業は週2回で――それにしては月謝は安かったと思う――、中学3年まで通った。

 英語学校の先生はほとんどが女性のネイティヴであった。園長先生自らがアメリカに行って面接をして連れてきた人ばかりであった。

 園長先生がどのような人か詳しくはわからないのだが、授業中に断片的に話してくれた内容によると、オハイオ州の大学に行ったらしい。それまでは荒れた少年時代を過ごし、母親にはたいへんな苦労をかけた、と言っていた。園長先生は、英語学校の先生だけでなく、キリスト教の牧師もされていた。

 だからわたしの通った幼稚園でも、その教育理念はキリスト教から導かれていて、お弁当を食べる前にはお祈りをして「アーメン」と言っていたことをいまでも憶えている。

 園長先生とオハイオの大学でできた友だちとの親交はずっと続いてきたようで、英語学校の先生の募集も――あるいは英語学校をはじめること自体も――その人との縁によって行なわれたようだし、また、「学習旅行」もその友だちの家――というか、教会――を頼って若者――主に中学生、ときどき高校生――を連れて行くことにしたのがはじまりらしい。

 日本から若者が行く年と、アメリカから日本に若者が来る年とを交互に繰り返しながら、相互の学習旅行が続けられてきた。わたしが中学1年の年が偶然日本から行く年にあたった。中学2年のとき、中学3年のときにそれがあたっていたら、果たして行ったかどうか。母は「絶対に行け」と言ったと思うが、わたしは英語と同じくらいに駅伝が好きであった。

 夏休みは秋の駅伝大会に向けた強化期間であった。午前と午後の2回練習が行なわれた(いま思うと、すべてにおいてわれわれを尊重してくれた顧問の先生と、顧問ではないのに総出で練習に付き合ってくれた保健体育科の先生方、ときどき練習を見に来てくださったその他の先生方にはたいへんなご苦労があったであろうことがよくわかり、だからいまでもたいへんな感謝をしている)。わたしは中学2年のときから正選手として大会を走った。けれど、中学2年のときはわたしが抜かれたせいで準優勝に終わり、県大会に行くことはできなかった。悔しかった。中学3年のとき、悲願であった地区大会で優勝することができた。6年ほど遠ざかっていた県大会では、一桁の順位でゴールすることもできた。中学3年のときは、受験もあり、英語弁論大会もあり、いま思うと本当にばたばたとした夏休みを送った。

 そういうわけで、アメリカに行く年が中学1年のときであったことは幸運であったと思う。そして、アメリカに行くことができて、よかったと思う。 
 
 わたしはアメリカでこう体感した。

 「世界は広い。世界は船引だけじゃないし、福島だけでもない。ましてや日本だけでもない。世界は広いんだ」

 船引はわたしの地元の町の名前である。以前にも幾度か書いたかもしれないが、「ふなひき」ではなく「ふねひき」と読む。

 小学校を終えたばかりのわたしの空間感覚は、せいぜい小学校区ぐらいなものであった。小学校の学区と言えば、半径2kmぐらいの空間である。それで精一杯であった――そう、まさに精一杯であったのだ。だから、中学に入って別の小学校からやってきた人たちをめずらしかった。「小学校、どこ?」である。だから、郡山(こおりやま、と読む)という隣の隣の市に行くのは、ものすごい冒険であった。

 わたしの空間感覚はそのぐらいの規模に留まっていた。

 だから、学区から福島とか日本とかをすっ飛ばして、いきなりアメリカに行ったことはものすごいインパクトをわたしに与えた。「世界は広い」の意味はそのぐらいに強い。

 それなら、と思った。それなら、将来は世界を舞台に仕事をしよう、と思った。船引だけでも福島だけでもダメだ、日本だけでもダメだ、それでは狭すぎる、日本だけよければそれでよいということにはならないんだ、世界のことを全部考える必要があるんだ、と思った。不思議と「アメリカはすげえ」とはあまり思わなかった。もちろん「すげえ」とは思ったけれど、それよりも「世界は広い。日本だけじゃない」であった。

 中学1年の夏、ハシモト少年はそういう体験をした。

 そこから毎日新聞の国際面を読むことになる。世界で何が起きているのかに敏感になっていった。「国際公務員」という仕事があるらしいということを知り、それを目標にした。調べたら、国際公務員になるためには修士号が必要なことを知り、ならば大学院に行く必要があり、そのためには大学に行く必要があり、高校に行く必要がある、そのように考えた。「高校には行かないとダメだ」と考えた。しかし、その段階では世界を舞台に自分は何をするのか――それは曖昧であった。進路などを本当に具体的に考えるようになったとき、「自分は何がしたいのか」と問うた。

 その答えに両親や先生方からの「教育」が係わってくる。それがわたしを教育開発に向かわせた第2の経験ということになる。


(さらに続く)


@研究室

by no828 | 2009-04-27 19:15 | 問題意識


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