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思索の森と空の群青

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2009年 08月 07日

わたしはね、あんたは哲学じゃないと思ってるんだよ

 11時頃から14時30分まで「教育の不平等」に関するデータ集め。大学中央図書館に某資料を探しに行ったが、貸し出されていないはずなのにあるべき場所にない。こういうの、困る。

 あとはずっと Mac の画面に出てくる諸機関の統計資料(膨大!)などを探して、見て、使えるかどうかを判断し、一覧にして某先輩にメイルで送る。首から背中にかけて筋繊維が固まる。うぐー。

 15時近くにようやくお昼を食べる。そのあとメイルをいくつか読む。

 そこに某先生登場。少し話す。

 「わたしはね、あんたは哲学じゃないと思ってるんだよ。政策研究なんだよ、やっぱり。自分なりの理念っていうか、原理っていうか、それを探してるんだと思うけど、それを使ってどうするかでしょ。原理原則やって理論を立てて、それで援助政策とか公教育政策とか、分析しようってしてるんじゃないの?ねぇ?哲学じゃないんだよ。わたしはそう見てんだよ。最近さ、ようやくその哲学のところから抜け出たと思うのよ。哲学使って現実の政策をどう分析するか、そこに来てると思うのよ。政策を説明するだけじゃなくてね、分析するっていう。しかも原理原則を立ててそこから。その拠って立つところをこれまで探してたんでしょ?」

 ほぼ、おっしゃるとおりです。上の言葉を聞いて、わたしは正直驚いた。「見られてる」と思った。この先生はわたしの指導教員ではないのだが、わたしのことをよく見てくださっている。うれしいし、とてもありがたい。

 ただ、哲学ではないとはなかなか言えない。わたしの研究発表を聞いてくださったあとに社会学の某先生から「ハシモト君は哲学でしょ?」と言われたのはつい先日、7月初旬のことである。わたしは哲学でもあるのだと思う。だからといって政策研究ではないかというと、それも違う。政策研究でもある。やはり哲学と政策研究のあいだにわたしはいるのだと思う。現実の政策を分析——説明ではない——するさいの基盤を哲学に求める、そういうスタンスだと自己規定している。

 さらに言えば、拠って立つ足場を一度作ってしまえばそれでおしまい、そこからものを言えばよい、とも思っていない。自分の足場も常に省みる態度、自分のその足場に立ったとき、実は靴の裏で踏んづけてしまっているものがあるかもしれない、その足場に立ったとき、わたしの視界に入らないところにも何かあるかもしれない、そういう視線も自分で投げかける必要があると思う。ただ、それでも不十分であり、わたしの視界の外部からどのようなまなざしで見られているか、そこにもできるかぎり配慮したほうがよい。

 それはつまり、自己規定しただけでは終わらないということである。「わたしはこうです」だけでは完結しない。そのわたしがどう見られているか、そこまで目を配る必要がある。それが「位置性 positionality」の問題である。「わたしは自分のことこう思うし、それでいいと思うんで、他人からどう見られようと構わないんです」では不十分なのだ。少なくとも研究においては不十分であり、とくに「先進国、高学歴」という権力性を身に纏ってしまったこのわたしには「他人にどう思われようと知ったことではありません」では不誠実なのである。自分がいまどういう文脈の中にいるのか、どういう関係性の中に組み込まれているのか——それを無視して言いたいことだけを言うとき、そこには意図せぬ暴力が働くことがある。それには自覚的でありたい。もちろん限界もある。その限界も含めて、自覚的でありたいのだ。


@研究室

by no828 | 2009-08-07 16:19 | 思索


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