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思索の森と空の群青

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2009年 08月 20日

進学してほしくないから——田舎の学校教育事情

 今日は書いてばかりになってしまうが(論文読め!)、お盆に帰省したさいに母と話して改めて考えたことを書く。
 
 わたしの母は小学校の教員である。その母と話して「『教育』っていうのは一体何なのか」と考えた。それはとりわけ田舎にとっての学校教育とは何かということであり、それは「途上国」の農村における教育とは何かということにもなると思う。

 わたしの地元は人口2万人ほどの田舎町である。列車は走るが電車ではなく汽車で、基本的に上下線それぞれ1時間に1本ずつしか走らない。終電は22時台である。この田舎町とその近隣4町村は、いわゆる「平成の大合併」で市になった(が、わたしの地元意識はこの市全体には拡張されない。よく知らない町もある)。市の人口は4万ちょっとで、先日書いた母方の実家(最寄りのコンビニまで車で15分)のある元・村も、現在この市の中に含まれている。

 母は今、この市の中にある某小学校に勤めている。1学年およそ30人2クラスの規模(であったはず)の小学校である。

 先日、この小学校の近くにある中学校で高校の説明会があった。通学圏内の高校の先生が中学校を訪れ、それぞれの高校について説明するという催しである(わたしが中学のときにもあったと記憶している)。

 説明会には、中学3年生の参加(これは強制的)に加え、その保護者にも参加が呼びかけられた。この中学校も1学年60人ほどらしいから、生徒ひとりにつき保護者ひとりの参加を考えると、120人ほどの参加が見込まれることになる。それに教員が加わる。

 しかし、説明会当日の保護者の参加は、何とたったひとりであったらしい。保護者席にはひとりしかいないということである。母は、それがあの地域の教育に対する意識の程度なのだと言った。母の勤める小学校への地域の協力もかなり弱いらしい。

 なぜか。

 進学してほしくないから。

 端的に言えば、そういうことになるであろう。学校に行き、勉強をし、成績が上がれば、高校や大学などの上級学校を目指したくなる。そして実際に進学する者も出てくるであろう。進学した子どもは地元に戻ってこない。進学先で、あるいは都市部で就職をし、生活の拠点を定める。だから地元には戻ってこない(わたしもそうなりそうな気がする)。すると地元の若年人口は減少する。決して増えない。地元の主要就業先は農業である。跡継ぎがいなくなる。畑はどうする、土地はどうする、家はどうする、墓はどうする。だから地域の人びとは、教育には、より厳密には学校教育には不熱心になる。わが子を手放したくないのだ(もちろん、そうでない親もいる)。

 わが県は、進学率や学力の全国順位からすると下から数えたほうが断然早い。それを嘆く声もある。わたしも新聞などで見ると、「うーん。もうちょっと何とかならないかな」と、正直、思う。しかし、上のような現実があるとすれば、一概に嘆いてばかりもいられない。田舎には田舎の現実があり、そこに生きる人びとにはその人びとなりの現実がある。現実というのは、非常に重いものである。

 だから進学させたくない親を支持する、とはしかしわたしは言わない。教育権は第一義的に親にある、親の教育権を尊重しなければならない、という主張もある。その場合、上に書いたような親の考え方は補強される。
 しかし、たまたま田舎に生まれ、たまたま「進学させたくない」と考える親のもとに産み落とされた子どもをどう考えればよいのか。家に帰っても友だちと遊ぶのではなく、宿題をするのでもなく、家で飼っている牛の世話をしなければならない子どもが実際にいる。「これは誰にも変えがたい運命なのです」で済まされる問題であろうか。わたしは運命論で片付けることができない。

 だから親を説得して子どもの勉強に協力させ、子どもが進学を希望する場合にはそれを叶えよ、ともわたしは言わない。わたしはその田舎の現実に塗れていないからだ。わたしはその田舎に生きる人びとの気持ちを完全に汲み取ることができないし、今からその田舎に生きざるをえない人びと(本当は別の人生を歩みたかった人びと)の代わりになることもできない。「当事者」という言葉を金科玉条のごとく掲げるつもりはなく、当事者でない者は沈黙せよと言うつもりもまったくないが、しかし現実に当事者ではないわたしは「こうしたほうがよい、こうすべきだ」という当為論を積極的に語ることができない。

 以上のことは、わたしの地元の田舎の話に限らない。わたしがこれまで勉強し、実際に行ったこともある途上国農村部にもあてはまる。学校教育が持ち込まれることで、その地域は変容する。「こういう世界もあるのだ」、「今のこれよりも、こっちのほうがよいのだ」と教育者は意気揚々と新たな知識を示し、それに触れた人びとがそのように感じたりもする。教育は「生き方 way of life」という広い意味での文化を変化させる。だからこそ大切なのであり、だからこそ厄介なのである。その二律背反はしかし、なかなかに意識されない。

 二律背反の中にいるわたしがひとまずできることは、上のように、考え方の見取り図を描くことだ。どの考え方を推奨するのかまでは言えない。少なくとも、まだ言えない。


@研究室

by no828 | 2009-08-20 15:32 | 思索


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