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思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
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2009年 10月 07日

わからない → わかる = 快感

 昨日は6限の社会学の授業のことも書こうと思っていたのだが、「なぜ学校に行くのか」と「何のために学校に行くのか」の違いについて書いていたら1時間が経過していたのでそこで止めた。

 社会学のほうで書こうとしていたことは、

 わからない が わかる に変わるのは快感だ

である。「快感」は、スポーツをするとか歌を歌うとかジェットコースターで大声出すとか、そういうことで得られると一般的には受け止められていると思うけれど、学問にだって快感はある。

 昨日はそれを久しぶりに体感した。

 授業では、某論集に載せる院生の論文を検討した。みんなで検討してよりよいものにしよう、というのが趣旨。

 昨日の発表は、いまいちわからなかったというのが正直なところで、そのわからなさの原因は少なくとも2つ。第1に理論枠組みの構築が不十分であったから、第2に論文前段で作った理論枠組み(不十分なわけだが)から論理的に導出されるはずの議論がその後に展開されず、まったく別の議論が接続されていたから(序論と本論のずれ)。

 そういうわけで、「よくわからないのだが、これはこういうことですか」というふうなやりとりを重ね、そのやりとりから議論が深まり、理論とは、概念とは、論理とは、のような、個人的にかなり好きなことが、間接的にではあったが話された。

 ところどころで先生が議論の整理をしてくださり、「ハシモト君が指摘したのはそういうことだよね?」「そうです(!)」という、「あなたのわからなさはわかります」という、そういう確認と共有が積み重ねられながらの議論であった。また、発表者とのあいだでも、「ここまではわかったけれども、ここからがわからない」という、やはり確認と共有があった。これは大事だなと思った。言い方が大げさかもしれないけれど、一体感、は大事だなと思ったわけである。

 だから、発表がおもしろかった、というよりも、発表を受けての議論がおもしろかった、と表現したほうが適しているかもしれない。もちろん、その議論ができたのは発表があったからである。発表が、わからないけれどもわたしなりに考えた、をできるだけ普遍的な言語で研究ベースに載せようという意図のあるものであったから、それには応えなくてはという気持ちも起こり、そこにわからないからわかりたいも加わり、ああいう議論になったのだと思う。

 また、修士課程の院生からも鋭い指摘があり、それはわたしも考えていたことでもあったので、「よくぞ言葉にしてくれた!」という気持ちにもなった。

 大体の授業は「早く終われ」と思っているわたしだけれど、昨日は時計を見たらもう終わりの時間で、「でも、この議論もう少し続けられないかなあ」と思った。


@研究室

by no828 | 2009-10-07 14:52 | 日日


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