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思索の森と空の群青

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2009年 10月 08日

誰かの哲学がなくても哲学はできる——土戸敏彦『冒険する教育哲学』

 相変わらず風が強い様子。ひゅるひゅるひゅる。この音、あんまり好きではないなあ。

 でも、研究はしなければならない。

土戸敏彦『冒険する教育哲学 <子ども>と<大人>のあいだ』勁草書房、1999年。

 教育哲学の勉強用。

「過去の教育思想・教育哲学の研究を、『思想史』の脈絡で捉えるのと、『哲学』のそれで理解するのとでは、きわめて大きな違いがある。思想史の視点からいえば、過去の思想の存在は一切の基本前提である。〔……〕過去の思想についての研究なくしては思想史そのものが成り立たない。過去の思想は、思想史にとってはむしろ素材をなしているのである。
 けれども、同じことが『教育哲学』にもいえるだろうか。過去のものとなった教育哲学・教育思想は、教育哲学の思索にとっていわば単なるきっかけにすぎないであろう。原則からすれば、過去の哲学(哲学する営みがなされた結果としての著作)ないし他人の残した哲学が眼前になくとも、哲学することは可能であるし、可能でなければならない。もしも、そのように断定できなければ、教育哲学とは何かという問題意識がここにはほとんど存在しないことを意味するだろう。
 〔……〕そもそも、過去の教育思想家の思想を研究することにもとづいて、教育哲学的にそこから何かを得ようとするのは、順序が逆転しているのではないか。むしろ、何らかの問題意識が先行し、それが過去の思想の参照を促すのでなければならない。この順序は、教育哲学にとってほとんど生命線とでもいうべきものである。そうだとすると、『教育哲学』にとって過去の教育思想を研究することは、ある意味で『思想史』の領域におけるのとは比較にならないくらい、厳しい問いの前に立たされているということになるはずである」(4-5頁)。


 そのとおりだと思う。この場でも何度も繰り返しているように、哲学は営みである。思想との関係で言うならば、思想を作り出す営みが哲学なのである。哲学がそこにあるわけではない。哲学はするものである。誰もができることである。その哲学の結果生まれるのが思想であり、その思想の中に何かを見出そうとするのが思想(史)研究である。

 「あなたの〜哲学は何ですか」「わたしの〜哲学は何とかです」(〜には人生とか経営とかが入る)といった言明がよくなされるが、わたしからすればそれらは適切ではない。哲学はその人(たち)のそれまでの過程、工程のすべてであり、「はい、これです」と出せるものではない。「これです」といって出せるのは思想である。思想は「これです」と答えることができるが、哲学はすぐに答えることができない。それこそ哲学書と言われるように、自らの哲学を答えるには本を書くぐらいの時間と言葉が必要である。しかし、本を書かずとも哲学はできる。日々の営みがすでに哲学だからである。ある意味で、日々の営みほど時間と言葉が費やされているものはない。


註:というわけで、カテゴリの「思索」の対訳を Philosophy から Philosophieren に変更した。Philosophieren は独語で「哲学する」の意。英語だと Philosophize があるようだが、語感としてよくわからないから独語にしておきたい。


@研究室

by no828 | 2009-10-08 20:13 | 思索の森の言の葉は


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