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思索の森と空の群青

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2009年 10月 11日

迷うから、結論が出ないから、続けるんです——森村泰昌『「美しい」ってなんだろう?』

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 昨日は結局研究室には来ず、部屋で。と言っても、研究をしていたわけではなく、炊事洗濯をし、読みかけになっていた数冊の本を読み終え、散歩がてら珈琲の粉を買うために輸入食品店に行き、ついでに少し高めのビールを1本買い、夜もまた本を読んでいたのであった。

 以下、その読み終えた本の1冊。部屋のインターネットを夏に解約したので、部屋でレヴューする気になかなかなれない。しかし、それだと読了本が溜まる一方なので、今日はそれを研究室に持ってきた。

44(177)森村泰昌『「美しい」ってなんだろう? 美術のすすめ』よりみちパン!セ、理論社、2007年。




 森村さんは美術家の人。

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「『わかる』というのは、そんな感じなんですよ。『これはなにをあらわしているか』というようなことがわかったからといっても、なんだかわかったようなわからないよね。たぶん、わかるというのはバイブレーションなんだ。なんか波長があうという感じ。その波長をキャッチしないといけないのだけれど、これにはちょっと時間がかかるかもしれないね」(70頁)。

 すぐにわからなくてもいいよ、そのうちわかる日がやってくるかもしれないよ。

 教育においても「わかる」とは何かと問われることがあり、それは評価に絡むことが多いのだけれど、わたしは基本的に森村さんの言っていることと同じように考えている。だから、わかったかどうかをある時点を恣意的に設定して外側から一律的に判定すること(= 評価)はできないと考えている。「できないけれど、しているもの、あるいはせざるをえないもの」が評価なのだ。
 「こういうことだよ。わかった?」と訊かれて、すぐにわかることもあるし、そうではないこともある。「わかる」がやって来るのは、家に帰って「ただいま」と言ったときかもしれない、1週間後の食事の時間かもしれない、1年後かもしれない、10年後かもしれない。いつかは自分でもわからない。外部から「この子はどうやらわかったようだ」と判じることができるのも、やっぱりいつかはわからない。
 でも、「わかった!」というときはきっと来る。それはたしかに「カチッ」という音がするような体験だ。こちら側(わたし)の「ぐるぐる」と、向こう側(わたしのわかりたい対象)の「ぐるぐる」がうまく「カチッ」とはまれば、「わかる」が来る。「波長があう」というのは、たぶんそういうことなのだと思う。だから、自分の中のひっかかりは大切にして、どんなに小さくても遅くてもよいから、「ぐるぐる」を回し続けておくことが必要なのだと思う。

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 芸能と芸術の違いについて。

「芸能とは、ぜったいウケないといけない世界である。
 芸術とは、ウケなくてもやらねばならない世界をもつことである。


 あるいは、こう言いかえてもいいかもしれません。
 
 芸能とは、ひとびとに広く行きわたることがめざされている世界である。
 芸術とは、深く行きつくことがめざされている世界である」
(120-121頁。強調原文)。

「あなたのなかにも、これだけはゆずれない、妥協したくないという、自分にとってとてもだいじなことってあるのじゃないかな。『ウケなくてもやり続ける』というのは、そういう気持ちは忘れないということなんだと思います」(153頁)。

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 芸術家の悩み。

「でもひとことでいって、芸術家はなにに悩み、なにをしたいのかというと、ただひたすら、『自分がいいと思える作品を作りたい、そのためにはどうすればいいのか』、これにつきるのだと思います。すくなくとも、そういう悩みを持つのが本当の芸術家。どうやったら認められて絵に高い値段がつくだろうかとか、どうやったらメジャーデビューできるだろうかとか、こういうことは目的ではなく結果です。有名になるために絵を描くんじゃないよね、やっぱり。『いい絵を描きたい』、『いい絵を描いて感動したい』という衝動が絵を描かせるのじゃないだろうか。私はそう思っているし、そういうことにトライしています。できるだけ雑念をとりはらって、ひたすら作品を作りたい。でもこれ、いうのはかんたんだけど、実行するのはけっこうむずかしい。だから悩みはつきないね」(167頁)。

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 教育論。

「若いみなさんに必要なこと、それは自分のこころにたくさんの種をまいておくことです。それらの種からどんな花が咲くかなんてわからないのもあたりまえ。だってまだ咲いてないもんね。でも、どんな花が咲くかわからなくて、そのことが不安だったとしても、ともかく種をまいておかなくては咲きようがない。だから、将来咲くであろう花の色を夢見て、いまはともかくいろいろな種をまいておこう」(240頁)。

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 美術とは。

「私は美術ということをやっていますでしょ。では美術ってなにかというと、『見える世界を通じて、見えない世界にいたること』だと思うんです。たとえば、絵は目にうったえかけてきますよね。見えることが絵の大前提です。けれどホントは『見た目』が重要なのではない、その目に見える目の前の絵から、目に見えないたいせつなことにいたるというところに、美術のおもしろさがあるんだと思います」(251-252頁)。

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 美大を目指す若者から、美術を目指さなくてもいいような気がしてきた、という相談を受けて。

「〔……〕あなたはあなたの進路を変えないでいいと、私は思いますね。画家ってなんだろうか、絵画ってなんだろうか、表現とは、美とは、こういう難問をかかえながら絵を描く。あなたはやっとほんとうの意味で、芸術に目覚めたのだと思います。こんなにまっとうな芸術との出会いはありません。私も迷いながらいろいろなこと、いまもなお試みています。迷うから、結論が出ないから、続けるんです。ぜひ、あなたにもそうしてほしい。おおいに迷いながら絵を描く道へと進んでください。すくなくとも、このことについては迷いはいらないって、私は思うけどな」(268頁)。

 わたしもとみにそう思う。大学院に入ってみて、「答えが出ている人っていうのは、大学院には来ないんだろうな」、「わからないから研究するんだろうな」と思う。

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 よい本だと思った。

 研究も芸術なのかな、美術なのかなと思った。「芸能」と「芸術」の対比でとくに感じたことだけれど、美術家が美術に向き合う姿勢と、研究者が研究に向き合う姿勢は、すごく似ていると思う。
 引用した中にある「芸術」や「美術」を「研究」に、「画家」を「研究者」に、「絵画」を「論文」に変えてみると、より一層「そうかもなあ」と思う。


 ちょっと元気出た。


「森村泰昌」芸術研究所


@研究室

by no828 | 2009-10-11 15:45 | 人+本=体


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