思索の森と空の群青

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2009年 10月 23日

お母さん、僕のをお母さんに上げるよ——藤原てい『流れる星は生きている』

 夕方、晴れ。

 61 (194) 藤原てい『流れる星は生きている』中公文庫、中央公論社、1976年。

 オリオン座流星群が見えるから、というわけではないが、ここ数日は『流れる星は生きている』を読んでいた。われわれが流れ星に思うこととは別次元のことがここには描かれている。

 わたしは幼い頃に祖父母によく聞かされていたことを思い出しながら読んだ。わたしは幸いにして直接の体験がないから、その祖父母の話とこの本でもって、伝えるべきことを伝えようと思う。


 舞台は満州新京の藤原一家——夫とは別行動となり、子ども3人を連れて生きた母の昭和20年8月9日ソ連参戦から終戦、日本への引き揚げまでを描いたリアルな記録。著者らは満州から今の北朝鮮、そして韓国へと、汽車(貨車)や徒歩で(後半はもう裸足で血を流しながら)山と川と38度線を越えて移動し、米軍に助けられた。

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「私は四人分の会費を出しているから四人分のお芋を受け取った。これを三つの山に分けて正広と正彦に与えた。正広は大事そうにゆっくり食べている。正彦は餓鬼のように食べてしまって、いつものように私の分をねだって来た。お行儀の悪いことはしないように一応たしなめたが聞かない。ついに負けて私の残っている分を正彦に与えようとした。
『正彦ちゃん、もうこれだけですよ。そんなにお母さんを困らせないでね』
 正彦は私の分を貰ってやっと落ちついた。私は正彦の食べ方を見ながらまた涙が出そうでならなかった。
『お母さん、僕のをお母さんに上げるよ、お母さんお腹がすいておっぱいが出ないでしょう』
 今までじっと見ていた正広が突然こういって、まだ半分食べ残して歯の跡がついているお芋を私に差し出した。私は正広が本気で私にそういってくれるのをその眼ではっきり受け取ると、胸をついて出る悲しさにわっと声をあげて泣き伏してしまった。
 七歳になったばかりのこの子が自分が餓えていながらも母の身を案じてくれるせつなさと嬉しさに私は声をたてて泣いた」
(111頁)。

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「石鹼を売るのには、もとでがいる。たとえば一個八円の石鹼を仕入れるのには八円を私は手元に持っていなければならない。しかし、いよいよそのお金すらなくなった時に私は、『物ごい』をすることを考えついた。
 まだ雪が、道ばたの日陰には残っていた。川ぞいの土手の柳の芽はふくらんでいたけれども、川面を渡って来る風は寒かった。
 私は誰にも内緒で団〔※〕を出た。右手に正彦の手を引き、正広を追い立てながら、石鹼売りをして歩き廻った町の地図を頼りに、適当な家を探して歩いた。咲子は背中で、泣声ひとつ立てない。たぶん声を出す元気もないのかも知れない。ほとんど乳を飲んでいない上に、大根汁の上ずみを少々すする程度では、この幼い命をつなぎ止めるのは無理なのだろう。来る日も来る日も高熱がつづいていた。王谷先生に診て貰ったところで、牛乳一本もらえるものではなし、薬をもらえるはずもなかった。それよりも、とにかく私の手で、何かを与えなくてはならない。一杯のみそ汁を、あるいは一合の牛乳を、私は自分の手で得ようと考えつめていた」
(155頁。傍点省略)。

※ 引き揚げる人たちは、男(夫)の現地の仕事先を単位にして集団を作り、その集団でところどころで仮住まいをし(、そしてお金を作り)ながら移動していった。男ははじめから、あるいは途中から団から離脱し、延吉などに送られていった。著者の場合、夫と幸いにも再会できたのは日本に引き揚げてからのことであったが、引き揚げまでのあいだに多くの人が亡くなった。 

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 タイトル『流れる星は生きている』はある歌の一節にある。

「『誰も知らない歌を御紹介しましょうか』
 といって金さんは或る晩ほんとに誰も知らない歌を紹介してくれた。
 『南方にいた時、私の部隊の兵隊が作詩して、別の兵隊が作曲したんですがね。二人とも終戦間際に死んでしまいました』
 金さんは当時を思い出すのか、ことさら悲しい声で歌ってくれた。そして私たちはいつかこれを覚え、口ずさむようになった。流れるように悲しいメロディは沈みきっている私たちの心の中でやっとこらえている涙をいつの間にか誘いだしていた。
 歌は三小節から成っている簡単なものであったが、何か私たちを引きつけて離さない魅力を持っていた。

 〔……〕
 わたしの胸に生きている
 あなたの行った北の空
 ご覧なさいね 今晩も
 泣いて送ったあの空に
 流れる星は生きている

 私はこの歌を覚えてから、無事に国へ帰りつくまで心の中で歌い続けていた」
(70-71頁)。

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 ちなみに、お気付きの方もいらっしゃるかもしれないが、文中に出てくる「正彦」とは、数学者で、というよりも『国家の品格』で有名な藤原正彦氏のこと。わたしはそれを読んでいないが、『若き数学者のアメリカ』(たしかコロラドのボルダーにいた)と『遥かなるケンブリッジ』という2冊のエッセイはおもしろく読んだ。
 素朴な疑問なのだが、引用にもあるような「戦争」という過酷な体験をした正彦氏が、どうして『国家の品格』を書かねばならなかったのであろう。読めば氷解するのかもしれないが、手を出そうと思うにはまだ至っていない。


@研究室 
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by no828 | 2009-10-23 16:33 | 人+本=体 | Comments(0)


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