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思索の森と空の群青

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2010年 03月 25日

でしょうね。思ってはいない。だから呪いだというんです——宮部みゆき『楽園』

 引き続き。
でしょうね。思ってはいない。だから呪いだというんです——宮部みゆき『楽園』_c0131823_15303960.jpgでしょうね。思ってはいない。だから呪いだというんです——宮部みゆき『楽園』_c0131823_153279.jpg
版元(上巻)版元(下巻)

30(263)宮部みゆき『楽園(上・下)』文春文庫、文藝春秋、2010年。
* 初出は「産経新聞」2005年7月1日〜2006年8月13日連載。
** 単行本は2007年に上下2分冊で文藝春秋より刊行。


 趣味本を、たとえ文庫とはいえ新刊で買ってしまうという背徳。しかも上下2分冊……。ちなみに、上巻503頁、下巻433頁の大部。しかし、一気に読めるのはさすが宮部さんと言わなければならない。

 ストーリーにより没入するには、『模倣犯』を先に読んでおくとよい(わたしは読んでいた)。というのも、『楽園』の主人公のライター前畑滋子は『模倣犯』の主人公でもあったからである。両作においては連続性が保たれている。本文に出てきた印象的な言葉として「喪の仕事」というのがあるが、『楽園』は『模倣犯』にとっての「喪の仕事」でもあるように思われる。

 書けるはずのない絵を書いて事故死した少年・萩谷等の絵から見えてくる人間の強さと弱さ。



もう目を背けないという覚悟は、積極的に立ち向かうという宣言とは違う。 
■(上・19)

 完全にコンテクストから離脱させていますが、体幹をちょっと引っ掻かれたもので。


「でも、この絵にこだわってしまう」滋子の発言を制して、秋津は続けた。「この絵をひと目見た瞬間に、これに囚われてほかのものが見えなくなってしまった。そうでしょう?」
 事実だったから、滋子は渋々ながらうなずいた。
「呪われてるんだ。未だにね」
「呪いだなんて! わたしは——そんなふうには——思ってないけど」
「でしょうね。思ってはいない。だから呪いだというんです」

 太い鼻息を吐いて、秋津は軽く笑った。

■(上・180 傍点省略、以下同様)
 
 本人は思っていない、しかし端から見れば何かに憑かれている——それを「呪い」だとするならば、と言って別のコンテクストに移動するが、研究においてこの「呪い」を明らかにするのが哲学(あるいは思想(史)研究)の役割なのかなあと、ここを読んで思った。もちろん研究において「呪い」などという言葉はほとんど出てこない(呪術研究などでは頻出すること間違いなしだが)。研究において「呪い」にあたるのは——とくに自覚されていない——「前提」とか「仮定」とか「立場」とかそういうものたちである。それらを取り出して吟味するのが哲学の役割だ——というのが目下のわたしの哲学観である。
  

 次に滋子は、大まかな〔調査の〕スケジュール表をこしらえた。萩谷等についての調査を、どの角度からどう進めるか。まず何をやるべきか。何を調べ、誰に会うべきか。最初は思いつくそばから書き出してゆき、ある程度書き尽くしたところでそれを整理する。
■(上・196)

 研究でもこの手順は大事。


 滋子の目には、こういう〔子ども・孫のなかでもっとも扱いやすい者を仕事や結婚をさせずに家に残すという〕やり方も一種の“虐待”に見える。子供から人生を取り上げ、自身の意志を持つことを禁じ、労賃なしのお手伝いさん扱いするのだから。
■(上・232)

 前近代と近代の衝突。


「何だそりゃ。宇宙人か?」
 滋子の肩越しにのぞきこんで、昭二はそう言った。
「これ、昭ちゃんだよ」
 それからが大騒ぎだった。昭二はさんざん抗議したり笑ったり怒ったり鏡を見たりして、滋子はそれを見て笑い、しまいには昭二が鉛筆を握り締めてスケッチブックに向かった。五分としないうちに描いたページをこちらに開いてみせて、
「これが滋子だ」
 ロングヘアの“へのへのもへじ”だった。
「夕飯、食べさしてあげない」
「待て待て! 早まるな! 描き直す!」
 何度描いても結果は同じ。二人とも絵心がない。からっきしダメだ。仲良くビールと焼酎を飲んだ。
「思ったより難しいもんだな」
 昭二は自分の太くて短い指をつくづくとあらためる。
「滋子の顔なんて、隅から隅までよく知ってるつもりなんだけどさ。いざ絵に描こうとすると、わかんなくなっちまう」
知ってることと、知ってることを表現することは別なのよ
「また小難しい言い方をする」

■(上・289)

 まさにそう。それにしても、こういうやり取りは、いいなあ。


 免許を取って二年だというが、誠子の運転はスムーズだった。
「わたし、免許を取るつもりはなかったんですよ。でも、達ちゃんが取れ取れって言うもんだから」
 別れた夫——井上達夫のことを、誠子は「達ちゃん」と呼んでいた。

■(上・)

 一瞬びくっとした。井上達夫という名前の法哲学者が実際にいるからだ。知っている研究者の名前がいきなり小説などに登場すると驚くということを知った。そして、井上先生も奥さまに「達ちゃん」と呼ばれていたのかなとか、余計な想像力を働かせてしまう。

 引用は以上だが、誤植と思われる箇所を最後にひとつ。


「ハイ、おすそ分け」
 敏子の土産だと説明して、飴の袋を差し出した。
「萩谷さんはとっても気を使う人だから、若い女性の一人暮らしのあなたに、いきなり宅配便を送りつけたりしないと思うの。だから、ね」
 誠子は子供のように喜んだ。

■(下・278)

「気を使う」は「気を遣う」が正しいはず(もちろん、言語において「正しい」とは何かという問いは残る)。これが現出する直前の277頁では、「敏子らしい気遣い」という表現が実際に使われている。したがってこの箇所は誤植と言ってよいと思う。同一作品中の表現方法の統一という観点からも、これは要修正であろう。

 よろしくご検討くださいませ > 版元さま

@研究室

by no828 | 2010-03-25 15:33 | 人+本=体


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