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思索の森と空の群青

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2010年 03月 27日

求めんとする意志が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる——立花隆『青春漂流』

 晴れ。陽射しは温かいが、空気は冷たい。今日は久しぶりにおもしろい論文を読んだ。わかりにくい英語で苦戦したが、大意は掴んだ。


求めんとする意志が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる——立花隆『青春漂流』_c0131823_19371512.gif31(264)立花隆『青春漂流』講談社文庫、講談社、1988年。

版元

* 単行本は(株)スコラより1985年に刊行。


 11人の若者の生きる姿。と言っても、全員男性だが。女性が出てくるのは、登場人物の妻としてである。“食えないときには妻が支えてくれて……”というパターンの“美談”。時代の制約かなあ。


 平均的には、三十代までを青春期に数えていいだろう。孔子は「四十にして惑わず」といった。逆にいえば、四十歳までは惑いつづけるのが普通だということだ。
〔略〕
 迷いと惑いが青春の特徴であり特権でもある。それだけに、恥も多く、失敗も多い。恥なしの青春、失敗なしの青春など、青春の名に値しない。自分に忠実に、しかも大胆に生きようと思うほど、恥も失敗もより多くなるのが通例である。
 迷いと惑いのあげく、生き方の選択に失敗して、ついに失敗したままの人生を送ってしまうなど、ありふれた話だ。若者の前にはあらゆる可能性が開けているなどとよくいわれる。そのとき、“あらゆる可能性”には、あらゆる失敗の可能性もまた含まれていることを忘れてはならない。

■(8 プロローグ)

 以前「惑わずに生きるためには惑う必要がある、か」ということを書いたのを思い出した。


 人生における最大の悔恨は、自分が生きたいように自分の人生を生きなかったときに生じる。
■(11 プロローグ)


「マルクーゼは『労働の外にユートピアを求めるな。労働の中にユートピアを求めよ』というんです。我慢してやる労働は疎外された労働で、もちろんその中にはユートピアはない。しかし、そうではなくて、遊びのような労働がある。誰かに強いられてするのではなくて、自由に自分の発意でする労働、何らかの欲求を抑圧しながらする労働ではなく、欲求を満足させるための労働、自分の能力を発見できることに喜びを感じられる労働、そういう遊びか労働かわからないような自由な労働の中にユートピアがあるというんです
■(32-3 塗師・稲本裕)

 マルクーゼ、読んでみようかなあ……。


「それで、思いきって、会社をやめて、ナイフ造りに自分を賭けてみようと思ったんです。そのとき二十八歳でしてね、こう考えたんです。人間、三十歳を過ぎたら、人生の将来設計もたてられずに、職業をあれこれ変えてウロウロすべきではない。しかし、三十歳までは人生の試行錯誤期間なのだから、少しウロウロしてみたほうがいいのではないか。三十歳まであと二年ある。この二年間を思いきってナイフに賭けて、それがものになるかどうか試してみよう」
■(55 手作りナイフ職人・古川四郎)

 同じような心境です。今のうちに専門以外のこともいろいろ勉強する、というのがわたしにとっての“ウロウロ”で、それは決して将来のためだからと思ってしているわけではなく単純に愉しいからしているのだけれども、しかしやっぱりこの“ウロウロ”は将来にとって決して無駄にはならないはずだともどこかで思っている。むしろ、この“ウロウロ”が強みにすらなるはずだと。


 古川四郎は、人生の選択を迫られる場面になると、必ず安易な道を排して、厳しい道を選んできた。それはなぜかと彼に問うてみた。
「うーん。自分でもなぜかよくわからないんですが、必ずそうしてますね。ナイフ造りもそうなんです。安易にやる方法はいくらもあるんですが、安易てのがきらいなんです。それに、安易てのは妥協を含むんです。妥協がきらいなんです
 妥協を排した人生は楽ではない。楽ではないが、楽しみは多いという。

■(57-8 同上)


いまお前は暗闇の中を走っている。いつ闇を抜け出られるか、誰にもわからん。明日かもしれない。一年先かもしれない。いつ来るかわからんが、必ずその日が来る。そのときお前の人生が飛躍する。とにかくやめてはいかん。後戻りしてはいかん
 という父親の叱咤と激励がなければ、とっくに挫折していたかもしれない。

■(75-6 猿まわし調教師・村崎太郎)


「〔略〕一番本質的なのは、自転車の姿というか型をつかんだということだと思う。自転車で何が大切かというと、バランスなんだね。そのバランスの中心に何があるかといえばフレームなんだ。フレームの形がきれいにきまり、それに合わせて自転車全体の姿がきれいにきまる。その姿のきめ方、きまり方が、心に刻み込まれたということかな」
 私はこの長沢の言葉を面白く聞いた。芸術家や職人など、一芸一道をきわめた名人、達人たちが、その極意を問われたとき、結局、それは型をつかむことだと答える人がほとんどなのである。
 長沢は異郷の地で青春を賭けてがむしゃらに働くうちに、諸芸の達人と同じ域に達してしまったのだといえるのではないだろうか。

■(150 フレーム・ビルダー/長沢義明)


 この連載に登場した若者たち一人一人、それぞれに「船出」の時があった。これというあては何もないのに、自分だけを頼りに、自分の人生を賭けた航海に、未知の大海へ向けて漕ぎ出していく「船出」の時があった。
 注意してもらいたいのは、その「船出」の前の時期である。空海の「〔大学を辞めて私度僧になってから三十一歳で遣唐使船に乗り込むまでの〕謎の空白時代」にあたる時期である。〔略〕
「謎の空白時代」が明らかになってみると、「船出」がやみくもの冒険ではなかったことがわかる。自分の人生を自分に賭けられるようになるまでは、それにふさわしい自分を作るために、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識的行為ではない。自分が求めるものをどこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。そしてまた、その求めんとする意志が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。
 そのとき、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。
 青春とは、やがて来たるべき「船出」へ向けての準備がととのえられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めんとする意志」である。

■(277-8 エピローグ)

 がんばろう。


@研究室

by no828 | 2010-03-27 20:18 | 人+本=体


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