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思索の森と空の群青

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2010年 04月 07日

境遇がより似たものになるに従い、人々が相互に義務を負う傾向が現れてくる——本日のトクヴィル

 お昼前から雨。

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 トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第二巻(下)』松本礼二訳、岩波書店、2008年。

 読書会の復習をば。


 民主政における<わたし>と<あなた>の関係、両者のあいだの援助の義務。それは貴族政のときの領主と臣下の契約関係とは違った関係であるとされる。


 一国の人民の中で地位がほぼ平等であるとき、誰もがほぼ同じような考え方、感じ方をするから、誰にとっても他のすべての人の感覚を瞬時に判断することができる。自分自身を一目振り返れば、それでよいからだ。だからどんな不幸も簡単に理解でき、隠れた本能がその大きさを教える。未知の他人や敵だからといって変わりはない。想像力を働かせれば、そういう人の身にもすぐなれる。想像力は哀れみの情に何ほどか個人的な感情を紛れ込ませ、仲間の身体が痛めつけられれば、わが身に苦痛を覚える。
■(19)


 境遇がより似たものになるに従い、人々が相互に義務を負う傾向が現れてくる。
■(36)

 なるほど。“立場の入れ替え可能性”と“人間としての同質性”に立脚した援助の義務。不安社会における“情は人のためならず”、“明日は我が身”という援助の契機、“わたしとあなたは同じ、だからわたしが苦しいことはあなたも苦しい”という、あるいはパターナリスティックな援助の内容。自己の拡大ないし他者の喪失。


 いま述べている大規模な産業を起こすにはすでに非常に富裕になっていなければならないから、企業家の数はごく少ない。数が少ないから、彼らは容易に同盟を結び、好きなように労賃を固定することができる。
■(59)

 マルクス! よくわからないが、“資本の本源的蓄積”ってこういうことなのかしら?


 デモクラシーにあっては市民の間に大きな違いはまったくなく、本来非常に近い存在なので、全員が一つの共通の塊に溶け込んでしまう可能性がある。だからこそ、意志に反して群衆の中に引き込まれるのを怖れて、人為的恣意的な分類を無数につくって、誰もが違いを明確にしようとするのである。
〔略〕市民を平等で同じようにする社会全体の努力がどうあれ、一人一人の個人の誇りは常に平均からの逸脱を求め、どこかに自分のためになる不平等をつくりたがるであろう。

〔略〕
 したがって、平等がどれほど進展しようと、民主的諸国の人民にあっては、大きな政治社会の中にたくさんの小さな私的結社がつくられるであろう。

■(98)

 第二巻(上)ではこんなことも言っていた。


 一国の人民がどんなに努力しても、その中で境遇を完全に平等にするには至らぬであろう。そして、仮に不幸にもこの絶対的で完全な平等に達したとしても、なお知力の不平等は残り、これは直接神に由来するだけに、つねに法の規制の外に出るだろう。
 一国の人民の社会状態と政治の基本構造がどれほど民主的であろうとも、市民の誰もが自分の負ける相手を身辺にいつも何人か見出すと考えねばならず、彼は執拗にこの点に目を向けるだろうと予想される。不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである。

■(237-8)

 ふむ。平等が不平等を作り出す、と言っては言いすぎか。


 これから新歓です。大人数は苦手。本当は行かないでおこうと思ったのだが、行かざるをえないことになってしまった。端っこでおとなしくしていよう。


@研究室

by no828 | 2010-04-07 18:36 | 思索の森の言の葉は


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