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思索の森と空の群青

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2010年 04月 09日

もし人文系の研究者にでもなろうと思うのなら、一千冊くらいではまったく話にならない——小林康夫

 年度のはじめはバタバタだなあ……。

 以下、書籍部で入手した小冊子。「東大教師が新入生にすすめる本」特集も含まれている。“おぉ、こんな本もあるのか。読まなくては!”という刺激がいっぱい。

もし人文系の研究者にでもなろうと思うのなら、一千冊くらいではまったく話にならない——小林康夫_c0131823_16491512.jpg

 『UP』39(4),2010年。版元

 引用文中の「立花」はジャーナリストの立花隆氏のこと。


〔略〕立花さんは、大学に入ったときの読書について語りはじめる。

立花 要するに、十代の少年として大学に入るじゃないですか。入ってしばらくの間はものすごい知的刺激が襲いかかってきますよね。サークルや授業やいろいろなところに行って顔を出してみると、やっぱりすごい連中というのはたくさんいるわけです。その連中と対等に話ができるために、まず本を読まなければという感じで、山のように読む。もう、日々、読書という感じ。最初は寮じゃなかったんですが、数ヶ月後には駒場寮に入っていて、そこで朝から晩まで本を読んでいる、だいたいそういう生活になりますよね。

 そう、若い読者のために、この点は強調しておいていい。一八歳からの数年間にどのくらい本を読んでいるのか、ということは、狭く文科系の学生に限らず、決定的に重要。一日一冊読んだって、たかだか一年に三〇〇冊、学部四年間で一千冊あまりしか読めない。で、はっきりと言っておくが、もし人文系の研究者にでもなろうと思うのなら、一千冊くらいではまったく話にならない。どんな分野でも、どんな対象でも、指数が四桁以上にならなければ専門家とは言えないだろう。その自覚も訓練もなくて、大学に、ましてや大学院にいるというのはどういうことだろう、と最近は暗澹たる気持ちになることがある。本は、単なる情報の集合などではなくて、どこかクレージーなものだ。その狂気につきあうには、読む方もどこかで常軌を逸することが必要。大学という場所にはそのような狂気じみたパッションが確保されていなければならない。

■(小林康夫,2010,「オデュッセイア後日談、あるいは「遺伝子」との三番勝負」『UP』39(4): 27-8.文中の傍点は省略)

 耳が痛い。が、ものすごく刺激になる。「指数が四桁」の意味がいまいちよくわからないのだが、“学部時代に千冊”ではまったく足りないということはわかった。わたしは確実に読んでいない。

 うおー。

 がんばろう。


@研究室

by no828 | 2010-04-09 17:27 | 思索の森の言の葉は


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