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思索の森と空の群青

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2010年 11月 16日

希望は与えられるものではなく、自分でつくり出すものだ——玄田有史『希望のつくり方』

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 版元

 玄田有史『希望のつくり方』岩波書店(岩波新書)、2010年。

 「希望」とは何か? 労働経済学者の玄田が自らの経験・体験をも豊富に織り交ぜながら、丁寧に説明する。希望は、自らの経験・体験を抜きにしては語りえないものなのかもしれない。

 ちなみに、この本は10代から20代の若者向け(me too!)に書かれているため、平易な文体で語りかけるように書かれているが、しかし質はまったく落としていない。


二〇〇一年六月一三日です。東京のある高校の体育館で、全校生徒にはじめて話をしました。
 結果はさんざんでした。生徒さんたちは、全然聞いてくれませんでした。元気の良い(?)というか、静かにだまって話を聞くのが得意でない生徒さんが多いと、高校の先生からあらかじめ聞いてはいました。その先生は「うちの子たちは最初から悩むのを放棄している」ともいわれました。

□(2)

「うちの子たちは最初から悩むのを放棄している」にまず衝撃を受けた。「悩むのを放棄する」について、しばし考え込んでしまった。


 希望を持つとは、先がどうなるかわからないときでさえ、何かの実現を追い求める行為です。安心が確実な結果を求めるものだとすれば、希望は模索の過程(プロセス)そのものなのです。
□(34)

 ふむ。例の“あれ”に似ている。文章ではこの前に「希望」と「幸福」との対比があり、それに続いての「希望」と「安心」。こういう概念(というか、理論的概念構成)の差異には関心がある。分けて考えるべきことは確実にあって、その“分けて考える”ためには概念の使い分けが必要。


 しかしコミュニケーションに気をつかってばかりいて、日本人の多くは人間関係に疲れ切ってしまっているように思えます。
□(82)

 なるほど。コミュニケーション社会。だからここからの逸脱・退出も起きるのだ。そして別の社会というか共同体を形成する。そのひとつが新興宗教であったりするのか。


 毎回ほんとによく準備をし、せっせと講義用のノートをつくり、講義をしてきました。何のため? 学生に正しい経済学の知識をおしえたいためです。でも、本当はそうじゃなかったのです。教えている内容がまちがっていると、学生から非難されたりしないように、要は自分を守るためだったのです
□(115-6)

 教えるようにもなった身としては、よっくわかります。


 セレンディピティ(serendipity)という言葉があります。何かを探しているとき、偶然に意外な出来事に出会うことでひらめきを得て、もともと探していたのとは別の価値ある大切な何かを発見できる才能のことを意味します。一七五四年にイギリスの政治家であり小説家でもあったホレス・ウォルポールのつくった言葉といわれています。
□(138)

 @「悩み」とか「迷い」とか「無駄」とか「失敗」とか、そういうものを肯定するコンテクスト。わたしも、もしかしたら自分を正当化したいだけかもしれないが、無駄なことは何もない、就職が遅れていることで失っていることは多々あるが、しかし同時に得られていることもあるはずだ、無駄にはなっていないはずだ、無駄になどするものか、と思っている、というか、思うようにしている。やっぱり自己正当化か。


誰かを幸せにしようとすれば、往々にして他の誰かにそのしわ寄せがいくということも忘れてはいけません。
□(169)

 だからこそ「世界同時革命」ということが言われたのだ。


〔略〕まだ発見されていなかったり、共有されていない問題も、社会には必ずあります。経済学に限らず、あらゆる社会科学が取り組むべきことは、いまだ光の当たらない、言葉にならない声をあげている人の声によく耳を澄ますことです。そして、その実態を明らかにすべく、謙虚に努力を続けることです。
□(170)

 共感。


 では、安易に希望を語ることが政治ではないとして、政治は何をすべきなのでしょうか。成熟社会における政治の最大の役割は、希望とは反対に、未来に起こるかもしれない絶望を避けることです。そしてそのための最大の努力を、今することです。
□(171-2)

 シュクラー? 最小不幸社会?


「大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。壁の前でちゃんとウロウロしていること。ちゃんとウロウロしていれば、だいたい大丈夫」
□(200)

 これも共感。わたしも壁の前で長らくウロウロしています。


一番いいたかったのは、希望は与えられるものではなく、自分で(もしくは自分たちで)つくり出すものだということでした。
□(213)

 主体的に、能動的に。希望学は、近代回帰か? 「回帰」というのは、われわれはポスト近代を経験した(している)との状況認識があるからこそだが。というより、状況認識はポスト近代、だがそれを何とかしようとするときの軸足は近代に置いておく、ということか。いや、わたしもそれに反対ではないのです。どうもそこに行き着くような、行き着いてしまうような、そういう気がしています。


@研究室

by no828 | 2010-11-16 18:53 | 思索の森の言の葉は


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