思索の森と空の群青

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2010年 12月 01日

いいか、覚えておくといい。学問には王道しかない——森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』

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82(315)森博嗣『喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr. Kishima』講談社、2010年。

版元 版元2


 学問の世界を描いた自伝的小説、と聞いてハードカバーの新刊なのに買ってしまった。贅沢。でも、読んでよかったと思う。研究や研究者に関心のある方にはもちろんおすすめだが、そうでない方にこそこの本はすすめたい。

 それから、この本の書物全体の扉と各章のそれには別の書物からの引用文が記載されている。その書物とは、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』(柴田治三郎訳、岩波書店(岩波文庫))である。私はこの書物を知らないが、しかし全体を読み終わったあとに振り返ってみると、本書を端的に、かつ、的確に表現した文章が引かれていることがわかる。「道」は一緒だ。

 あと、本文の紙質が普通の本と違っている。ちょっとざらざら。


 その一冊を読むことで得られた経験が、たぶん僕の人生を決めただろう。意味のわからないものに直面したとき、それを意味のわかるものに変えていくプロセス、それはとても楽しかった。考えて考えて考え抜けば、意味が通る解釈がやがて僕に訪れる。そういう体験だった。小さかった僕は、それを神様のご褒美だと考えた。つまり、考えて考えて考え抜いたことに対して、神様が褒めてくれる、そのプレゼントが「閃き」というものなのだと信じた。
□(9-10)

 意味のわからないものを意味のわかるものにする、その結果意味のわかるものになる、というのはたしかに愉悦である。“わからない”は人間にとって本来的に気持ちのよい状態ではないのかもしれない。だからこそ意味が通るように物事を解釈する図式を求める(逆に言えば、解釈図式がないと物事を理解することはできない)。

 だが、私はそれだけでよいのか、という気もする。つまり、“わかる”がすべてか、と。“わからない”を“わかる”にすることの意義はわかる。しかし、それはある物事についての“わからない”を“わかる”へと縮減することを意味することもある。つまり、“わからない”が有する広がりや深みを削ぎ落とし、半ば無理やり“わかる”にする、ということもあるのではないか、ということだ。“わからない”ことはもしかしたらやっぱり“わからない”ことであるかもしれず、それを強引に“わかる”にまで持って行くことの暴力性というものもあるのではないかと考えたりもするのである。


 まとめるように、というのは具体的には文章を書けという意味だ。それまでの成果は、すべて数字か図だった。それの意味するところを説明できるのは僕だけだ。〔略〕たとえば、僕が交通事故で今死んでしまったら、僕のファイルにあるデータの意味は誰にもわからなくなってしまうにちがいない。それらを誰にでもわかるようにしておくこと、つまり文章として書き記すこと、一種の遺言のようなもの、それが、すなわち論文なのだ、と中村さんは僕に言った。
でもね、論文を書くことは研究ではない。これは喜嶋語録の一つだ」〔略〕「論文にすることで整理される、というメリットは少しあるけれど、しかし、時間的にも労力的にも、むしろマイナスだね。論文をまとめている間は、研究がストップしてしまう。本当に研究を早く進めたかったら、論文なんか書いている暇はないかも」
〔略〕「〔略〕先生は、ロッククライミングの話をされた」
「ロッククライミングですか」僕は首を傾げた。
自分一人で一度だけ登るなら、最低限の足掛かりで充分だよね。どんどん登っていけばいい。だけど、あとから同じ道を登ってくる奴がいるわけだ。自分だって、そこをまた通るかもしれないじゃん。そういう場合のために、ちょっとサービスをしてやるっていうのが、まあ、研究者の良識というものなんだな、つまり……」

□(71-2)

 先人の切り拓いた道はある。だが、自分にとって本当に必要な道はそこにはない。だから自分で切り拓く。先人たちがかつてそうしたように。そして、切り拓いた道は誰もが通れるようにしておかなければならない。


論文を書くときにも、参考文献のリストの数をもっと減らすように、と先生から指摘されたことがある。
「人の論文を沢山引用しなければならないようでは品がない」と言われるのだ。「読んでますよ、ということを示すために引用文献があるのではない。本当にその理論に立脚したとき、その理論がなければ議論にならないときだけ、しかたなく引用する。可能なかぎり少ない方が良い。引用がゼロの論文が理想だ

□(94)

 「参考文献」と「引用文献」は違う。


 つまり、「研究」というのは、まだ世界で誰もやっていないことを考えて、世界初の結果を導く行為……、喜嶋先生のようにもっと劇的な表現をすれば、人間の知恵の領域を広げる行為なのだ。先生はこうもおっしゃった。
既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するため〔の——引用者〕手がかりは、自分の発想しかない
「論文」には、世界初の知見が記されていなければならない。それがない場合には、それは論文ではないし、研究は失敗したことになる。もちろん、世界初の知見であっても、ピンからキリまである。それを評価するには、実はその発見があった時点では無理かもしれない。初めてのことの価値は、基準がないからわからない場合が多いのだ。特に、それが新しい領域における最初の一歩の場合にはそうなる可能性が高い。それでも、もちろん手応えというものがある。

□(100)

 イエス。


 とにかく四六時中、研究室で机に向かっている。一週間の半分は徹夜をする。食事をする暇も惜しむから、仕事をしながら飲み食いする。食堂へ行くのは、下の者、つまり、学生か低学年の院生ばかり。上の者ほど、朝が早く夜が遅い。歳の順に出勤し、若い順に帰っていくのだ。土日も祭日もない。盆も正月もない。そういった休日は、「雑入力」がないから、ゆっくり研究ができる、とみんなが楽しみにしている。
 何がこんなに彼らを急き立てるのだろう?
 どうしてここまで誠実になれるのだろう?
 僕も最初はわからなかった。

□(150-1)

 最近、この気持ちを忘れかけているかもしれない、と思うときがある。ダメだね。


「〔略〕ただ少なくとも、研究者の間では、言葉は、それが意味するところ、その意味から形成される共通認識がすべてだ。怒った顔で話そうが、笑いながら言おうが、言葉の意味とは無関係なんだ。どんな言葉を使ったか、それがすなわち、研究者の心だ。〔略〕感情なんてちっぽけなものに流されてはいけない
□(155)

 努力事項。


科学の前で、研究者は平等なのだ。
□(202)

 御意。


「〔略〕いいか、覚えておくといい。学問には王道しかない
〔略〕
 この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことだ。
 学問には王道しかない。それは、考えれば考えるほど、人間の美しい生き方を言い表していると思う。美しいというのは、そういう姿勢を示す言葉だ。考えるだけで涙が出るほど、身震いするほど、ただただ美しい。悲しいのでもなく、楽しいのでもなく、純粋に美しいものだと感じる。そんな道が王道なのだ。

□(211)

 学問には王道しかない。


 とても不思議なことに、高く登るほど、他の峰が見えるようになるのだ。これは、高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ、あの人は、あの山を登っているのか、その向こうにも山があるのだな、というように、広く見通しが利くようになる。この見通しこそが、人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め、お互いに尊重し合う、そういった気持ちがきっと芽生える。
□(290)

 わかる。でも、登るべき山はまだまだ高い。


 僕はもう純粋な研究者ではない。
 僕はもう……。
 一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいたんだ。
 あの素敵な時間は、いったいどこへいったのだろう?
 喜嶋先生と話した、
 あの壮大な、
 純粋な、
 綺麗な、
 解析モデルは、今、誰が考えているのだろうか?
 世界のどこかで、
 僕よりも若い誰かが、同じことで悩んでいるのだろうか。
 もしそうなら、
 僕は、その人が羨ましい。
 その人は幸せだ。
 気づいているだろうか。教えてあげたい。
 そんな幸せなことはないのだよ、と。

□(341-2)

 私にはそれは、今、だ。今、やるしかない。


@研究室
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by no828 | 2010-12-01 17:26 | 人+本=体 | Comments(0)


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