人気ブログランキング | 話題のタグを見る

思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ
2010年 12月 14日

救済は常に、する側でなくされる側の問題なのだ——京極夏彦『文庫版 狂骨の夢』

救済は常に、する側でなくされる側の問題なのだ——京極夏彦『文庫版 狂骨の夢』_c0131823_19224489.gif

版元


84(317)京極夏彦『文庫版 狂骨の夢』講談社(講談社文庫)、2000年。




 本文全969ページ! 読み終えるのに3日かかった!(ずっと読んでいたわけじゃないよ。)

『文庫版 狂骨の夢』は、『嗤う伊右衛門』、『文庫版 姑獲鳥の夏』に続く京極夏彦3冊目。『嗤う』は大学院に入ったばかりのときに読んだ記憶がある。「京極夏彦」はそれまでおどろおどろしいイメージしかなかったが、古本屋で105円で売っていたので試しに買ってみた。読んでみた。やさしい小説であった。以後、京極夏彦は古本屋で見つけたら買うようにしている。

 『姑獲鳥』同様、本書も文庫版として出版されるにあたり、大幅な加筆修正が施されており、ページをまたぐ文章はひとつもないようになっている。すごい。

 なお、『姑獲鳥』にしても『狂骨』にしても、特定の学問分野がベースにある。精神分析と量子力学である。おもしろい。今回は、フロイトを多少でもかじっていればもっとおもしろく読めたかもしれないと思った。でも、精神分析自体はあまり好きではないのだわたしは。
 
 引用の前に本書内容にかかわるミニ知識。「神父」はカトリック、「牧師」はプロテスタント、だそうです。はじめて知りました。今度友人の結婚式が教会であったら(幹事長が有力かっ!)、注意してみよう。なぜ旧教にしたのか、なぜ新教にしたのか、も気になるねえ(DMなど同期諸君はどっちであったか)。神父、牧師、以外の呼び方もあるのかしら、宗派によってとか。

 それから、いわゆる「プー太郎」。きわめて現代的な呼び方かと思っていましたが、漢字では「風太郎」で、第2次大戦後に生成された概念らしい。本文では「港湾で働く日雇い労務者のこと」と説明されています(604)。風のように集まり、風のように散る、ということかもしれません。

 あ、あと京極夏彦は漢字の勉強にもなります。「豪く」は「えらく」とかね。


「降旗君! 思い上がってはいけない。人が人を救うことなどできるものか。救うのも、赦すのも、人の領分ではない。それは神の仕事だ」
「いいえ。仮令〔たとえ〕この世界をお造りになったのがあなたの神だとしても、いや私達人間自体もその神が造り給うたものであったとしても、世界を見て、それを認識しているのは人間だ。私達なくして世界はないのです。だいたい洗礼すら受けていない異教徒の私や異邦人のこの人に、あなたの神が有効かどうか」

□(237)


「〔略〕そして死後の彼を造るのも私達です。ああ、私はあの世がないと申し上げている訳ではありません。死後の世界は生きている者にしかないと云っているのです」
□(268 傍点省略)


 そうやって語っていると〈私の過去〉は〈私の過去の物語〉になり、〈私の体験〉もまた単なる〈不思議な物語〉になってしまう。物語化することで現実は急激に生生しさを失ってしまう。少なくとも語る者にとってはそうであるようだ。私はどんどん醒めていった。
□(411)

 あぁ、これはわかるなぁ……。何か自分の過去が自分自身から乖離していくような……。


「そんなことはなかろう」
「いいえ。それは違います。矢張り学究の徒として私の態度は間違っていた。学問は個人を救済するためだけにあるものではないでしょう。仮令私にとって辛い現実であろうとも、それが真理なら仕方がないし、同じように私にとって無価値なものであっても、それが真理ならば追究を止めるべきではないでしょう?」
真理は個人と無関係に、ぽっかり空に浮かんでいる訳じゃないだろう。君にとって無価値ならそれは矢張り真理ではないよ」
「気休めは止してください。いずれにしても私はフロイトの呪縛から逃れられなかった。これは呪いです。いや、逆怨みですね。私が一方的に怨んでいるだけだ」

□(433)


「しかしひとりひとりはこよなく善人であっても、それが沢山集まれば別な主張ができ上がるものでしょう。そうしてでき上がった全体の意思と云うのは、もう個人の意志〔ママ〕ではない。それはたかが個人には変えようもないものです」
□(465)


「理論的でなければ真理に到達できないと云うのはおかしな話だし、はたまたまじないや呪術の類が論理的でないと云うのも間違った考えですよ。道筋が違うだけです。途中の式が違うだけで目指すものは皆一緒です。構造的には大差ありません」
□(621)


「ところがこいつは〈骸骨の妖怪〉でもある訳で、この辺りがややこしくなる元だ。骸骨系統の妖怪は本来煩悩から解き放たれて陽気にはしゃぐような一面を持っているんだね。仮名草子の『二人比丘尼』に出て来る骸骨達も、骨を鳴らして歌い踊り、腐る部分が落ちた自分達こそ人の本質だ、と現世の無常を笑い飛ばす。ゲエテの『フアウスト』に出て来るレムルと云うのも骸骨だが、奢覇都〔サバト〕で歌い踊るだろう?」
□(650)


「人は人を救えないとか嘯いてるが、僕は泥鰌だって掬えるぞ。旗ちゃんが救われたくないのなら勝手にすればいいが、そこの牧師は別だ! あんた、救って欲しいのだろう。救われたいなら藁にでも縋ればいい。そのうえ僕は藁ではなくて探偵だッ」
 榎木津の迫力に牧師と精神科医は後退した。
〔略〕
「いいんだ降旗君。本当にその人の云う通りだよ。救済は常に、する側でなくされる側の問題なのだ。人は人を裁くことはできないが、救うことはできるのかもしれない。それで救われたなら、それもまた神の意志だろう」

□(705-6)

 ふむ。


@研究室

by no828 | 2010-12-14 20:45 | 人+本=体


<< ほぼ1ヵ月前の「森崎書店の日々」      句点3個の土曜日 >>