2011年 01月 22日
8(330)京極夏彦『文庫版 絡新婦の理〔じょろうぐものことわり〕』講談社(講談社文庫)、2002年。 版元 おそらく小学生の頃、いずれにしてもわたしが幼かった頃、世界全体を管理・制御(コントロール)する何らかの主体がいるのではないかと疑ったことがある(今でもときどき考えることがある)。つまり、主がいて、その主が世界を作り、世界の中に存在する諸主体をも作り、諸主体の行動をすべて予め規定している、だからわたしたちが自由に行動しているとしてもそれは錯覚であって、その主の定めたとおりに動かされているにすぎない、それゆえにわたしの“こうしたい”とか“あれをしたい”という一見するところの“自由意志”もすべて、予定された意志である、だから何をしてもそれは自分が選んでしたことではなく、そうなるように仕組まれているだけなのだ、だとしたらこの〈わたし〉とは一体何なのか……。 プログラム化された世界、プログラム化した主。 今回、そのことを思い出した。 また、読みすすめていく中で、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』をも思い出した。われわれはひとつのコンテクストの上にある、そしてそのコンテクストを操作できる、だが決して指差されない主がいる、われわれはそのコンテクストの上で踊らされているだけだ。むろん、ネグリとハートはここから、そのコンテクストから産まれ、しかしそのコンテクスト自体を変革する方途を至極楽観的に描いてはいるのだが。 さて、京極夏彦。今回は女権拡張論としてのフェミニズムをめぐるお話。もちろん、科学とは何かという問いは通奏低音のように響いている。あいかわらず、おもしろい。そして、この筆致はすごい。本文1374ページ! □ 「貴方が関わること自体が系を乱してしまったのです。貴方は傍観者を決め込んでいるけれども、観測行為そのものが不確定性を内包していることは御承知でしょう。それならば——予測など」 旋風に地を覆う花びらが吹き上がり舞う。 その渦に言葉を乗せて、男は饒舌になる。 「慥かに、観測者が無自覚である場合は不確定性の理から逃れられるものではありません。だが観測者がそうした限界を十分に認識している限り、己の視点を常に括弧に入れて臨む限りはそのうちではない。僕は事件の傍観者たることを自覚している。つまり観察行為の限界を識っている。だから僕は言葉を使う。言葉で己の境界を区切っている。僕は僕が観察することまでを事件の総体として捉え言説に置き換えている。僕は既存の境界を逸脱しようと思ってはいない。脱領域化を意図している訳でもない」 □(20) 研究行為にとってものすごく大切なことを京極堂は説いている。 余談だが、もし大学院の内部で京極のこのシリーズを演じるとしたら、京極堂はO本先生しかいない。 □ 「世の中奇麗事ばかりで渡って行けるもんじゃねえだろう。廃娼運動なんてのは、慥か明治からあったんだろ。それがどうだ。大体今の赤線の女どもの多くは元慰安婦だろう。特殊慰安施設協会〔RAA〕作ったのは国だし、その原型の東京料理飲食店組合作ったのは警視庁じゃねえか。歴史を辿れば吉原作ったのだって幕府だぜ。大夫だろうが夜鷹だろうが、新日本女性だろがパンパンだろがやることは同じだろうぜ。公娼廃止で私娼にして、自由商売になった途端に躍起になって取り締まるってのは俺にはどうもな」 □(101) □ 株式会社R・A・A〔レクリエイシヨン&アミユーズメントアソシエイシヨン〕協会〔ママ〕——略称AS〔アミユーズメントサービス〕とは、東京警視庁の要請により、花柳業界の代表者が集い、政府より援助を受けて設立した、所謂進駐軍特殊慰安施設のことである。つまり駐屯米兵専用の郭だ。〔略〕要は外国人相手の性的なサービス機関としてしか認識されていなかったと思う。 □(681) □ ランクをつけると云うことはそもそも無意味且つ下品なことである。そうしたことを平然と受け入れるのは愚かだし、それで一喜一憂することは更に愚かなのだと、伊佐間は思う。 そこでふと気づく。それを愚かだと思っている自分は、愚かな階級信奉者を見下してはいないか。 □(277) □ 「〔略〕人はひとりで居ても、自分と、自分を取り囲む自分以外——世界とに分かれてしまうのです。世界に対する己の位置づけ——格と云うのは必ず生まれる筈なのです。だから、人間がこの世に存在する限りは、格と云うものはなくならないと、僕は先ずこう思うのです」 「ほう——」 〔略〕 「でも、そのような、格を定めるための価値の尺度を歴史や社会に求めるようなことは、無意味なこととも思うのです」 「無意味?」 「無意味なのです。それは盤石たる社会や、国家や、民族があってからこそ、有効な格なのです」 「でも個人は社会の中に居るし、社会は歴史の果てにあるでしょ? それでも無効?」 「そう思うのです。今は幅を利かせていますが、今後こうした価値観は意味を為さなくなるだろうと、僕はそうも思うのです」 〔略〕 「個人対世界——個人の内側と外側の世界の関係こそを計って、世界に対する自分の絶対的な格を定めなければ立ち行かなくなるような、そう云う本質的な時代が到来すると、僕は考えるのです」 〔略〕 「〔略〕絶対的な格を求めるなら、基準となる尺度もまた絶対的なものでなくてはなるまい、と、思う訳です」 〔略〕 「——もしも絶対的な価値観と云うのがあるのだとすれば、それは個人の内部にしかあり得ないと、僕は思うのです。そしてそれが個人の内部でしか通用しない以上、比較できる対象も対立するただ二項、個人と世界——宇宙と云うことになりませんか?」 □(309-14) これは、今川のセリフ。そして、「そう云う本質的な時代」はまさに今。物・事に対するメタ認識を獲得してしまった以上、何かを信奉、否、妄信することはもはやできない。それゆえに今は、常に疑いを持って物・事に臨むことの求められる“不安の時代”である。だからこそ逆に、信奉・妄信のほうにも向かいうる時代ではある。 角田光代の小説か何かに、何事も牛丼との対比において判断するという男がいた。つまり、たとえばこれは牛丼何杯分だから買うに値するとかしないとか。彼にとって「牛丼」は彼の内部の絶対的基準であったのかもしれない。 □ 「ですから。名前などどうでもいいのです。真に自由を勝ち取りたかったら名前に対する拘泥りなんかとっとと捨てるべきです。戸籍にどう書いてあろうと関係ないことです。自分で金太郎だと思えば金太郎だしそれでも他人が熊吉と呼べば熊吉になる。それだけのものです。〔略〕それで何の不都合もない!」 〔略〕 美江はやや狼狽の色を浮かべた。 「しかし姓と云うのは家そのものであり——」 「わははは。旧姓に戻ったって、それは元元あなたのお父さんの家の姓でしょうに。姓の方をナシにするか、自分で勝手に苗字も創ると云うなら話は別だが、そうでないなら逃れることは出来ないじゃないですか」 □(383) これは榎木津のセリフ。 □ 「そうさ。蜘蛛の糸は通常暈〔ぼや〕けていて、これが明瞭〔はっきり〕見えるものを合理的認識〔サイエンス〕と呼び、全く見えぬものを隠秘学〔オカルト〕と呼ぶ。隠秘学はだから非合理的認識ではないし、科学と魔術も相反するものではなくて、それは本来その程度しか違いのないものだ。〔略〕」 □(440) □ 「まあいいでしょう。白魔術とは要するに原理原則が詳らかになっている魔術で、黒魔術とはその原理原則が暗箱に入っている魔術のことと考えればいい。原理原則が明確になっていれば誰にでも使える。しかし肝心な所が秘されていては、その人にしか使えない。これ公と個の差だ。〔略〕」 □(1132) □ 木場は今、何をするべきか迷っている。 行動方針が定まらない状態は、苦痛だ。 木場は図体の割りに手先が器用だし、厳めしい顔の割りに計算も早いが、それでも矢張り不器用で馬鹿だから、相談事と云うのが出来ない。察してくれる友はいるが、察して貰っていることを察することが出来ないから、木場は戸惑うばかりである。そう云う時に木場は、思い出したようにこの店を訪れる。 □(455) そういう店があるといいなと思うことがある。もちろん、「そういう店」というのは、お酒を出してくれる店のことです。 □ 潤は木場を睨んだ。 「いいとか悪いとかこの際関係ないのよね。要はその時生きてる世間とどう関わっているかってことなんだもの。馬鹿の癖につまンないことで迷わないでくれない?」 「ああ——」 ——その通りだ。 木場は一気に酒を呷った。 道徳に照らすな。世間の常識に照らすな。己の情に照らすな。警官は法にのみ照らせと、そう云うことだろう。それらは凡て移ろうものでそれ故に絶対ではないけれど、警官が事件に当たって法律を疑っていては世の中が成り立たなくなる。 勿論、その法とても絶対ではないけれど、それを疑うのは別の場所、別の貌でしろと、酒場の女主は刑事を窘めているのだ。 「解ったぜ——」 □(474) □ 「君は理屈が嫌いなのじゃなくて、他人の構築した理屈を認めたくないだけなんだ。君は理論化を拒む振りをして、実は君なりの理論を構築している。だから脱論理的とは云えず、矢張り論理的なのだよ」 「普通の言葉で云え」 「あまのじゃく」 「けッ。あってるじゃねえか」 □(502-3) あはは。 □ 慥かに筋は通っているが、いずれ人の心などそう一筋縄では行かぬ、否、行かないで欲しいものである。木場には善く解らないが、精神分析と云うものは靄靄とした不定型の人の心を、理論に則った像に、解釈に都合の良いような形に、定まった一定の型に嵌めて行くだけのもの——のような気がする。木場の思うに、これも要するに理想的結論が先にあるのだ。 □(516) わたしも精神分析にはこのような印象を抱いている。 □ 「絶対服従と云うのは問題なのです。全責任を相手に委ねている訳で、失敗しても叱責されないのであれば、服従された側は余計にやり悪いのです」 □(604) □ 「そうした男の支配欲に抗わず、被支配的立場を享受する女達への——更なる憎悪」 □(637 傍点省略) □ 「あの無茶苦茶な榎木津でさえ、ただ関わって外側に居られなくなったんだからね。この事件には外部がないのだ」 「外部がない?」 「外部に居ようと思ったら、一切関わらない——否、事件自体を知らないで居るよりない。これは、多かれ少なかれどんな事件でも同じことなのだろうが、今回の事件に関して云えばそれは一層に明確だ」 「関わった人間には——真犯人の、蜘蛛の目論見を阻止することは絶対に出来ないと、そう云うんですか!」 「そうだ。〔略〕」 □(875 傍点省略) 外部がない! □ 「関係者が都合良く動いてくれるように、予め四方八方に水面下で圧力〔バイアス〕をかけておく——と云うのが蜘蛛の手口だ。この場合も岐路が無限にあることに変わりはないんだが、張った網に掛かった場合のみ有効に活用し、掛からなかった場合は無視をすると云う手口なんだな」 □(959) □ 「〔略〕だから蜘蛛は、自分以外の誰かが被害者を殺してもおかしくない状況を作るために、被害者自身が自発的に第三者に怨まれたり憎まれたりするような行動を執るように仕向けたんだ。そうさせることで第三者に被害者を殺したくなる動機を与えたかったのだろう」 □(961 傍点省略) □ 「あなたがどう動くか、これは勿論あなた自身の判断に委ねられていた訳ですが、去年の夏以降、あなたの選択肢を限りなく狭めた第三者が存在することは間違いないことのようですね」 □(1109 傍点省略) □ 「大人と子供の境界は呪術——言葉です。現実を凌駕する言葉を獲得した者こそを大人と云うのです」 □(1095) □ 「論旨は解りますが——主旨は解り兼ねます」 □(1223) これは今度使ってみよう。言っていることはわかる、だが何のためにそれを言っているのかわからないとき、そういうときに使ってみよう。 なお、109ページに「固執」ということばが出てきて、「こしゅう」とルビがある。これは誤植なのか、あるいはそういう読み方もまた“正しい”のか。後者であれば、いつかの総理大臣もまた正しかったということになる。 @研究室
by no828
| 2011-01-22 22:03
| 人+本=体
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自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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