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思索の森と空の群青

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2011年 03月 03日

スラム街の子どもたちの笑顔が眩しかった、でよいか

 開発や援助などに興味を持った一般の人びとが、あるいは、何らかのアピールを依頼された著名人が、いわゆる途上国に行くことがある。わたしも前者のカテゴリに属す者として過去にバングラデシュを訪れたことがある。

 そうした人びとが抱く感想のひとつの典型に、以下のようなものが挙げられる。

 幸福の規準はお金ではない。幸福の価値観は人それぞれだ。
 物質的に貧しくても、それは必ずしも不幸ということではない(物質的に豊かでも不幸な人が多い日本を見よ)。
 1日1ドル以下の生活を送る人びとを指して貧困だと言うけれど、彼/彼女らに悲壮感などまったくなかった。彼/彼女らはとても明るかった。彼/彼女らは貧しくなどない。人間の状態を貨幣というひとつの規準で計測すること自体が間違っているのだ。
 スラム街の子どもたちの笑顔が眩しかった。
 お金がなくてもたくましく生きる人びとの姿に感動した。
 幸せかどうかは、人それぞれの気持ちの持ちようなのだ。
 
 これらは、実はバングラデシュを訪れたある方の率直な感想である(参照したのは某省庁の某メルマガ)。わたしもこれらの感想自体を否定する気はない。しかし、これらが言説として流布していくと、そこには問題が生まれるように思われる。

 どういうことか。

 上掲の感想では、「幸福度」と「所有貨幣量の多寡」とが切り離される。つまり、お金を持っていなくても幸せにはなれるのだし、逆にお金を持っていても幸せになれないこともある、要はお金を持っているか持っていないかではなく、当人の前向きな気持ちが大切なのであって、それこそが幸せであるための条件なのだ——と、こういうことになる。

 この論理はかなり容易に、それならばお金がなくても大丈夫だ、開発や援助は必要ない、お金がなくても幸せなのだから、彼/彼女らの価値観はお金を重要視していないのだ、というところに行きやすい。

 しかし、お金は生きるための大切な手段である。そして、生きるための大切な手段としてのお金という位置価は、グローバリゼーションによって広く共有されるようにもなっているのではないか、と思われる(ここはあくまで「思われる」の範囲を逸脱しない)。

 これは貨幣社会に生きるわたしの捉え方にすぎないのかもしれない。少なくとも日本社会は貨幣社会である。貨幣を持たない者が生きることは困難な社会である。

 そのような日本社会とは異なり、貨幣がそこまで浸透していない非貨幣社会、亜貨幣社会、あるいは未貨幣社会も世界には存在しているかもしれない。むろん、ここでの「社会」の範囲は国境で区切られた空間ばかりではない。それよりももっと小さな単位を見つめれば見つめるほど、貨幣社会ではない社会のありようが見えてくるかもしれない。

 だが、バングラデシュの少なくとも首都ダッカは、貨幣がなくては生きにくい社会であろうとわたしには感じられる。わたしは通りで何度も貨幣を求められた。もちろん、わたしの限られた経験は不十分な根拠にしかならない。しかし、わたしの感触それ自体は事実であり、その感触は上に掲げた感想と論理的には等価である。

 また、このようなわたしの感触には、開発や援助ではなく、自ら働くことで発展していくことが望ましいと考えている途上国ベースの起業家・企業家の方々も共感するのではないか。なぜならば、彼/彼女らも商品の対価として貨幣を受け取ることを前提・条件にしているからであり、それはつまり貨幣のあることが個々の人びとの労働を介した人間的・社会的な発展の礎になると考えているはずだからである。

 このように考えてくると、お金がなくても幸せになれる、という判断は、ある程度のお金がないと幸せになるための条件が整備できない、という(仮定的)事実を捨象することになりかねない。大切なのはお金ではなくて気持ちなのだという意見は、実はお金がないと生きられない・生きにくい社会に存在する人びとを——強い言い方をすれば——見捨てることにもつながりかねないのである。

 これら大別して2つの見方に共通する態度、すなわち“外部”からあなたは幸せだとか、いや幸せではないとか、そのように判定を下すことそれ自体の妥当性も問われなければならない。これは、幸福は主観的にしか評価できないのか、それとも客観的にも可能なのか、という問題でもある。わたし自身は後者の余地を残す方を支持するが、それでも外部から「あなたは自分では幸せだと言っているが、“本当は”不幸なのだ」とか、逆に「あなたは自分では不幸だと言っているが、“本当は”幸せなのだ」とか、そのようにして断じることは支持していない。ただ、人間の主観とはきわめて曖昧なものであり、だからこそ操作可能なものであり、それゆえに主観にすべてを委ねる方途は採りたくない。

 最後にやや跳躍してしまった感があるが、つまりは“彼/彼女らはお金がなくても幸せなのだ、子どもたちの眩しい笑顔を見てみなさい”という言説は“彼/彼女らはお金がなくても大丈夫だから放っておけばよろしい”という言説に容易に転じうるのであり、そこには注意を払う必要があるのではないかということなのである。


@研究室 

by no828 | 2011-03-03 21:31 | 思索


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