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思索の森と空の群青

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2011年 05月 07日

フィクションには、本には、言葉には、人を殺す力が宿っているんだよ——伊藤計劃『ハーモニー』

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34(356)伊藤計劃『ハーモニー』早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2010年。

版元




 『虐殺器官』(→ )に続いて2冊目。

 病気のない社会の到来、そして——。人間が人間であるためには? わたしの身体はわたしのもの? 社会のもの? わたしの意識はわたしのもの? 社会のもの?



<優しさは、対価としての優しさを要求する>

□(23)


〔略〕それら健康への急迫なる危機を前にして、世界は政府を単位とする資本主義的消費社会から、構成員の健康を第一に気遣う生府〔ヴアイガメント〕を基本単位とした、医療福祉社会へ移行したのだ
□(31)


「そのカソリックのドグマの後継者は、意外にも慈愛に満ち満ちた、我らが健康社会。神の授けし命という教義は、生命主義の健康社会では『公共物としての身体〔パブリック・ボディ〕』となる。わたしたちの命は神の所有物から、みんなの所有物へとかたちを変えた。命を大切に、という言葉は、いまやあまりに沢山の意味がまとわりつきすぎているの」
□(45)



【生命主義】
生命至上主義(英:Lifism)。構成員の健康の保全を統治機構にとって最大の責務と見なす政治的主張、若しくはその傾向。二十世紀に登場した福祉社会を原型とする。より具体的な局面においては、成人に対する充分にネットワークされた恒常的健康監視システムへの組みこみ、安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供、その三点を基本セットとするライフスタイルを、人間の尊厳にとって最低限の条件と見なす考え方。


□(58)



 定められた目標が極端で融通が利かないほど、弱い人間はそれを守りやすい。

□(93-4)


「WatchMe に警告されてしまいましたわ。対人上守るべき精神状態の閾値をオーバーしている、って」
「確かに、公共の場で興奮したりすると、WatchMe はそれを計測してユーザに警告してくれますね」
「ええ、わたしを内部から見る視線があるというのは、ずいぶんありがたいことです」
 そうだろうか。いま WatchMe が行ったのは、心拍やホルモンバランスなど医療分子が計測した身体的精神的なぶれを解釈し、対人上好ましくない精神状態としてユーザに拡現表示で警告することだ。つまり、どのような態度をとるべきであるか、WatchMe はささやかな作法の指導をミァハの母親に与えたわけだ。言ってみれば自分を律することの大半は、いまや外注に出されているのだ。生化学的に計測された精神的逸脱への警告というかたちで、外部化されたのだ。医療分子の発明は、身体と規範とを同一のテーブルに並べてしまった。
 それを鬱陶しいとは思わず——いや思っているかもしれないが——この人物は従うべき規範としてごく自然に受け入れている。身体が発するシグナルに基づいて、ソースコードがモラルを発現する。わたしはそのことに、本能的な嫌悪を覚えた。

□(142-3)

 “感情教育”を思い出した。こういうときに妥当な感情は“怒り”であるとか、こういうときは“悲しみ”であるとか、そういうことを教えようとするのを(あるいは過剰な)感情教育と言い、もしくは感情教化と言ってもよいかもしれない。

 オーウェルの『1984年』ではまだ、内面の自由は残されていたはずだ(→ )。


「ユダヤ人を殺した連中ですね」
『連中』じゃない、国家だよ。市民と投票と代議制からなる民主的制度の産物だ。そうやって生まれたナチスほど、人間の生活というものを細部まで分類して管理しようとした体制は、それまでなかったんだな。癌患者登録所というものを作って、癌に罹患した人間を把握し、分類し、検査して、ナチスは人類史上初めて癌を組織的に撲滅しようとしたんだ
「ファシズム、でしたっけ、その、ナチス政権下のドイツの政治制度は」
「そう。ある意味で現在のこの社会の御先祖様はナチス政権下の健康政策だ。デブっていう肥満を表していた日本語がこの半世紀のうちに消えちまったのは知っとるか」
「ええ、なぜか知っています」

□(160-1)


「アメリカ開拓時代だ。大陸に連れてこられた黒人奴隷や、中国人をはじめとするアジア人労働者は、しばしばコカの葉などの麻薬系植物を嚙み嚙みしてたから、体力の限界を超えて働くことができた。いい迷惑なのはそういうのを嗜まない白人労働者連中だ。麻薬をモラルの面から禁止することで、労働市場における『劣等人種』の労働優位を奪おうとしたんだな
「てっきり、麻薬は人間をダメにするからかと思ってましたよ」
「それも真実ではある。だが、真実の一面でしかない」

□(163)


〔略〕意志ってのは、ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲求がわめいている状態なんだ。人間ってのは、自分が本来はバラバラな断片の集まりだってことをすかっと忘却して、「わたし」だなんてあたかもひとつの個体であるかのように言い張っている、おめでたい生き物なのさ。
「で、この論文はそれをモデル化したのね」
 教授は論文表示を落としてから、デスクに肘をもたせ掛けてうなずき、
そうだ。これを読んだヌァザは、その欲求に与えられる報酬系の諸要素をいじることで、人間の意志を制御することが可能だと踏んだんだな
 意志の制御。
〔略〕
 人間の欲望を制御する。
 人間の意志を制御する。

□(170-1)

 リバタリアン・パターナリズムの思想を押し進めると、こういうことも正当化されることになる、はず。設計主義。社会工学+人間工学。感情のプログラミング。意志のプログラミング。


 だけど、人間のからだはそんなふうにできてはいないよね。人間は成長する。人間は老いる。人間は病気にかかる。人間は死ぬ。自然には本来、善も悪もないんだ。すべてが変化するから。すべてがいつかは滅び去るから。それがいままで「善」がこの世界を覆い尽くすのを食い止めてきた。善の力で人間が傲慢になるのをぎりぎりのところで防いできた。けれど、いまや WatchMe と医療分子のおかげで、病気や通常の老いは駆逐されつつある。「健康」って価値観がすべてを蹂躙しようとしている。それってどういうことだと思う? この世界が「善」に覆い尽くされることなんだよ。
□(181)

 うん。



「ヒトラーの母親は乳癌で死んだ」
 と冴紀教授が言う。
「医者はユダヤ人だった。だからヒトラーのユダヤ人憎悪はそこに端を発している。ホロコーストはヒトラーの母親の乳房から生まれたというわけだ。右か左かは知らんが」

□(214)

 だから癌の撲滅も?

 事実かどうかは知らないが。



〔略〕
 そこで御冷ミァハはにっこり笑って、目の前に本の表紙を突きつける。
フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない

□(224)

 これは、そう思う。

 本当に。

 思想もまた、ひとつのフィクション、か。


 意識の消滅。
〔略〕
「そう、会議に参加する者の意見がすべて同じで、相互の役割が完璧に調整されていれば、会議を開く必要そのものがない。報酬系が現在軸で価値を極大化させるような双曲線を描かずに、合理的な指数曲線で完璧な調和を見せた状態とは、すなわち意識のない状態であるということで、実験の結果わかった。〔略〕」
 父が生み出そうとしたもの。
 それは生府社会のストレスに適応した、すべてがそうあるべき自明な人間。自明であるということは、判断を必要としないことでもある。もし、完全に合理的な価値割引を行うよう指数的に報酬系が振る舞いだしたら、決断するための意志はいらなくなるんじゃないだろうか、意識は不要になるんじゃないだろうか。

□(262-3)


あなたは思ったのね。この世界に人がなじめず死んでいくのなら——
そ、人間であることをやめたほうがいい
 タタッ、タタッ、タタッ。
 再びミァハはステップを軽やかに踏みはじめた。
というより、意識であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる

□(343)


 この段階に到達して、人間が動物である部分が残されていた時代に書かれた社会学も経済学も、一夜で破産を向けた。社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた。
□(361)


 わたしはシステムの一部であり、あなたもまたシステムの一部である。
 もはや、そのことに誰も苦痛を感じてはいない。
 苦痛を受け取る「わたし」が存在しないからだ。
 わたし、の代わりに存在するのは一個の全体、いわゆる「社会」だ。

□(362)


 以下、佐々木敦の「解説」より。


 伊藤計劃と同様のプロセスで『Self-Reference ENGINE』でデビューした円城塔は、SF作家として、小説家として、計劃氏とはタイプがかなり異なっていると看做されがちであるが(だが二人の親交はつとに知られるところである)、ここには両者に共通する感覚があると思う。つまり、書かれたものは常にどうしたって「誰か」が書いたものであるということ、それは「誰か」に書かれなければこの世界に存在することはなく、したがって「誰か」に(私たちに)読まれることもなかったのだ、という端的な、残酷な事実に、どこまで誠実に対応するか、ということである。「神」として世界の背後に隠れながらすべてを操ることも、ただ「作者=私」として語ることで却って更にその陰の真の自分を温存しようとすることも、伊藤計劃も円城塔も選ぼうとはしていない。その表出の仕方は最終的にはかなり違うものになってはいるが、この二人が親友であったのは、虚構に対する、世界に対する基本的な姿勢において、間違いなく相通ずるものがあったからなのだ。
□(379)

 研究者にとっても大切なことが書かれている。人文学・社会科学者にとって、自分を消すことが本当に最適な態度なのかどうか。ヴェーバーの「価値自由」も、そういう考え方ではなかったはずだ。


@研究室

by no828 | 2011-05-07 15:47 | 人+本=体


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