人気ブログランキング | 話題のタグを見る

思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ
2011年 05月 10日

お延の絶望は津田が矢張りそんな人間だったのかという、一層救いのないものであった——水村美苗『続明暗』

お延の絶望は津田が矢張りそんな人間だったのかという、一層救いのないものであった——水村美苗『続明暗』_c0131823_1553512.jpg
35(357)水村美苗『続明暗』筑摩書房(ちくま文庫)、2009年。

版元




 夏目漱石未完の大作『明暗』(→ )の“続編”。

 好きだった女性・清子と結婚できずに、別の女性・お延〔おのぶ〕と結婚した津田。清子を津田に引き合わせたのは例の“夫人”であった。裏切られた格好になった夫人は、手術を受けた津田に、身体を休ませるために温泉場に行ってはどうかとすすめる。その温泉場には清子も逗留していた。それをも知らされた津田は、結局その温泉場に行く。そして、なぜ自分から去っていったのか、清子に理由を訊くのであった。お延は津田が清子に会いに行ったことを知り、……。


「だって私ね、最後の所であの方〔=夫人〕の思ってらした通りに動かなかったんですもの」
 滝の方へ身を戻すと、青竹の柵に手を掛けて俯き加減になった。
「成程」
 津田は自分の迂闊に初めて気が附いた。夫人とお延との関係に迂闊だった如く、夫人と清子の関係にも迂闊だった。どたん場になって清子が身を翻した時、夫人の裏切られ方と自分の裏切られ方とは違っていて当然だったのに、それを考えずに今まで済ませて来たのだった。女を恨む夫人の未練と女を恨む自分の未練とが同じものである筈は有り得なかった。もう一歩突き進めれば、果して夫人の感情を未練と名附けられるかどうかも疑わしかった。清子が自分のもとを去って行ったという驚愕に伴い、津田の胸には悲しみとも怒りとも附かぬどろどろした思いが湧き起こったが、もし夫人に同様の感情が生まれたとしても、それがより濃く怒りに染め上げられていて何の不思議もなかった。津田は女から新たに与えられた認識を前に独りで当惑せざるを得なかった。
「然しそれが、僕を此処に送り込む事とどう関係があるんですか」
〔略〕
「どう関係があるって……」
 一瞬云い渋った彼女は再び眼を滝壺に戻すと、言葉を小さく区切りながらも判然と云った。
「だから、私がこうして此所で貴方とお目に掛かってね、そうして、あの、関〔=清子の夫、津田の友人〕に顔向け出来ないような、……本来ならば、顔向け出来ないような事になれば可いとお思いになって……」

□(277-8)


「一体何の為にわざわざこんな所まで遣って来たのだろう……」
 お延は想像の水飛沫を全身に浴びながら自問した。お延の自問は自嘲でもあった。東京を出る時には既に何の望みもなかったのを、それでも夫の元へと一心に駆けつけたのは、わが眼で己れの不幸を確かめたかったからだけではなかった。胸の何処かで万が一の奇跡を知らず知らずのうちに願っていたからでもあった。現実は想像していたより更に情けない展開を遂げた。
 夫は好きな女に自分を見変えったのですらなかった。好きな女への已み難い思いを抑え切れずに、どうしようもない所まで行って、其所で初めて自分を裏切ったというのではなかった。深い決意もなく、ふらふらと人に云われるままに、お延の依って立とうとする所凡てを撲殺したのであった。貴方を信用したい、——お願いだからどうぞ最後の所では信ずるに足る人であって下さい、というお延の切実な魂の訴えに、毫も本気で応えようとしなかったのだった。
 今、お延の胸には津田がそんな人間だったという絶望が渦巻いた。而もその絶望は不意に足元を浚われたような驚愕を伴ったものではなかった。お延の絶望は津田が真逆そんな人間だったとはいう驚きよりも、矢張りそんな人間だったのかという苦い思いを伴う、一層救いのないものであった。その苦い思いの裏には、そんな人間をこの人こそと夫に撰んだ自分の姿があった。それは己れの才を頼み過ぎた軽薄な姿であった。

□(386-7)


「奥さん、人間は人から笑われても、生きている方が可いものなんですよ」
〔略〕
 今お延は、小林のその言葉に対して「私はまた人に笑われる位なら、一層死んでしまった方が好いと思います」とは応えられなかった。応えられなかっただけではなく、そう応えた自分を懸隔ったもののように遠くに眺めた。そんな事を云ってしまった自分に対する恥ずかしさも、そんな事を云えなくなってしまった自分に対する腑甲斐なさも、不思議とお延の心を悩まさなかった。お延は放心したように前を見詰めた。

□(406-7)

 以下、著者の「新調文庫版あとがき」より。


小説を読むということは現実が消え去り、自分も作家も消え去り、その小説がどういう言語でいつの時代に書かれたものかも忘れ、ひたすら眼の前の言葉が創り出す世界に生きることである。それを思えば、「人間」であることこそ小説を読む行為の基本的条件にほかならない。我々が我を忘れて漱石を読んでいる時は、漱石を読んでいるのも忘れている時であり、その時、漱石の言葉はもっとも生きている。文学に実体的な価値があるとすれば、それはこの読むという行為の中から毎回生まれるのである。漱石の価値というものも、そこでは毎回自明なものではなくなり新たに創り出される。文学の公平さというのもそこにある。
□(412)

 これを読んで感動しました。

 消えることが生むことにつながる、というのが気になります。これについて何かもっと言えそうな気がするのですが、それが出てきません。


『続明暗』を読むうちに、それが漱石であろうとなかろうとどうでもよくなってしまう——そこまで読者をもって行くこと、それがこの小説を書くうえにおいての至上命令であった。その時は『明暗』を書いたのが漱石であること自体、どうでもよくなってしまう時でもある。〔略〕私は『続明暗』が『明暗』に比べてより「面白い読み物」になるように試みたのである。
□(413)

 はい、面白い読み物でした。

 ただ、できあがるまでの過程は困難が多かったように推測されます。漱石を受け継ぎつつ、それを超えていく——これは、しかしどのような仕事においても共通することかもしれません。研究なんて、まさにそうです。


@研究室

by no828 | 2011-05-10 15:50 | 人+本=体


<< COEDO -Shikkoku-      第4子 >>