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思索の森と空の群青

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2011年 07月 26日

今まで書いたものすべてがその人の武器であるし、力なわけで——土屋賢二・森博嗣『人間は考えるFになる』


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58(380)土屋賢二・森博嗣『人間は考えるFになる』講談社、2004年。

版元




 哲学者と工学者との対話。

 ちなみに、わたしは「論理」というものを土屋のエッセイから学んだ。



森 思うように操るというか、書きながら想像するわけです。「あの人が読んだらこう考えるな」とか「あの人が読んだらこういうふうに勘違いするな」とか「うちの奥さんは、ここで絶対疑うだろう」なんて。そのうち、それを利用しましょう、となる。
土屋 だから、それは典型的な詐欺師の手口ですよ(笑)。
森 初めからこう騙そうと決めて書いていくより、こう相手が出てきたらこう、こう考えてきたらこう、というふうにその場その場で相手のベクトルを利用して切り返した方が、切れ味が良くなると思います。

□(15)

 論文を書くうえでも大事。たとえば、“これについてあの先生であればこう言ってくるに違いない”とか、異論反論を予想して書きすすめる、異論反論をバネにして書きすすめる。この“あの人であれば”というのをどれくらい想定できるかが大事になってくる。



森 〔略〕今書けるか書けないかなんて、作家には全然関係のないことであって、今まで書いたものすべてがその人の武器であるし、力なわけで、書けば書くほど力は増してくる。今は駄目なんてことはない。
土屋 ああ、なるほど。
〔略〕
森 悪い作品を書くぐらいだったら書かない方が良い、良い作品だけ残した方が良いって、そういう気持ちがエンジニアとして理解できないんです。どんなものでも誠実に作っていれば、その人のものだし、なんらかのプラスになると思うんですが。

□(29)



森 工学は、専門的なもので先生の力が示しやすいんですよ。学生たちを圧倒できるというのがありますね。数学もそうです。学生にはわからないのに、先生にはわかるという状況がある。だから、力の差が歴然としていて、これはもう教えてもらうしかない。そうなると、〔先生を〕批判的には見られない。その力の差が、わかりにくい分野もあると思います。
□(43)

 土屋は、哲学はそうした差がわかりにくい分野だと言う。「語学力」や「哲学史の知識」の多寡はたしかにあるが、それは哲学にとって本質的なものでないと言う。

 同意。

 しかし、「教育」には、そしてときに「学習」にも、この教え手と学び手とのあいだの圧倒的な落差が必要とされる。



土屋 文献は読みますけど、必須ではないんです。だから、全く文献を読まないで素晴らしい哲学書を書くということは、可能なんです。凄く偉い哲学者って大体そうなんですけども、他人のものはあんまり読まない(笑)。
□(65)

 同意。しかし、日本の諸哲学は、先人の残したテクストの解釈、思想の抽出に傾注しているように見受けられる。だが、それは哲学史、思想史なのであって、“哲学する”という営みとは必ずしも言えない。
 


森 研究はしたい。でも、教師にはなりたくない。
土屋 そうそう。ケーキは欲しいけど太りたくないみたいない(笑)。僕たちの研究は実験がないから、やろうと思えば個人でできるんです。本代は必要ですけどね。それで、不動産屋になろうと思ったことがあって。
森 不動産屋ですか?
土屋 そう、できるだけ少ない労働時間で大きい収入が得られるかと思って。できれば一攫千金とかね。で、不動産屋の免許とって、実際三ヶ月くらいやってみたんです。計画段階では完璧だったのに上手くいかなかったんです。巨万の富がすぐに手に入ると思ってたのに。計画は緻密に立てても駄目ですね。緻密に立てなくても駄目だけど。

□(69)

 わたしも不動産屋の免許を(以下省略)


森 人に教えるのとかって、嫌ですよね。なんか、おこがましいと言うか。
土屋 そうそう。

□(71)



土屋 でも、研究の時間って年々少なくなってますけどね。
森 そのとおりです。大学の先生っていうのは、もっと暇にしてなくちゃいけませんよね。部屋でいつもごろごろして難しい本読んでて、何やっているかわからないというのが、学生から見たら憧れの姿だったんですよね。
〔略〕
森 理想の大学教授は「となりのトトロ」のお父さんみたいな感じかな。田舎に住んでいて、何してるのかわかんないってお父さん、いたじゃないですか。あれは大学の先生ですよね。あんな田舎に住んでて、出勤は大丈夫なのかな、とは思いますけれど(笑)。でも、あれが学者のイメージで、何をやってるのかわからないけれどお金が入ってきて良い商売だなって。そう思うと、子供も憧れるんじゃないですかね。

□(73)

 そういう観点から「となりのトトロ」を観たことがない。


土屋 研究の仕事は完全に好きでやってらっしゃるんですか? 研究から逃れたいっていう気持ちはありますか。
森 研究からはないです。でも研究以外のものからは逃れたいです(笑)。研究対象が面白いというよりは、工作と一緒で、作ってる過程が面白いと感じます。
土屋 それは給料をもらってなくても、やりたいことですか?
森 もちろん。

□(101)



森 〔略〕ミステリィファンというのはミステリィの九割が嫌いな人たちのことです。ミステリィファンに限って「こんなのミステリィじゃない」と言う。「うるさがた」という形容が適当だと思います。
□(105)

「研究者というのは既存の研究の九割が嫌いな人たちのことです。研究者に限って「こんなの研究じゃない」と言う」。



森 〔略〕殺すとか憎むというのは、基本的には相手になにかを求めているんですね。求めて得られないから反対の感情が出てくるのだと思います。
土屋 え、何を求めているんですか?
森 愛されたいとか、関係をもっと深くしたいとかでしょうか。元から人間関係にあまり期待していない人間はもつれないわけです。

□(110)



森 そうですね。他人から好かれたいというところが人間の弱さなんですよね。自分が好きになるのは良いですけれど、好かれたいと思うのは非常に弱いとか醜いというイメージがありますね。
□(126)



土屋 ディオゲネスなんていう特殊な人がいて、一人で樽の中で暮らしていたわけですけども、あれはほんとに異端みたいな感じだった。ディオゲネスは、ソクラテスを崇拝していたんです。
森 それと樽が関係するのですか?
土屋 関係ありません(笑)。ソクラテスは死刑になったんですけれども、ディオゲネスみたいに樽の中で暮らしてたら死刑になんかなってないです。
森 なるほど、社会性があったから社会に殺されたわけですね。
土屋 そう思うんです。

□(128)



森 みんなで力を合わせなきゃいけない場面になれば、人間は力を合わせますよ。協調性とかってあまり無理に求めなくても、たとえばチーム組んで今からサッカーやろうとなったら、みんな話し合ってちゃんと力を合わせます。明確な目的さえあれば、協力するように人間はできている。何も目的がないときから、みんなで一致団結して声を揃えようという、今までのやり方の方がおかしかった。
□(134-5)



森 ジェットコースタは、乗っているときが楽しいというのは倒錯ですよ。本当は乗っているときは怖くて、終わったときにほっとして、「怖かったね」というのが楽しい。
□(139)



森 そうです。小説書いていて思ったんですけれど、次はこうなると思いついても、その途中がないんですよ。そこは埋めていかなきゃいけない、相手に説明するときに。見せたいシーンまで持っていくのが凄い大変。
土屋 その目的の場面を盛り上げるために、いろいろ状況を作っていく。
森 そうです。そういう場面にもっていくために、いろいろ辻褄を合わせる。

□(144)

 逆算。結論からの逆算。哲学の論文もそうなのでは? と思った。「事実(〜である)」を記述・説明する自然科学・社会科学とは異なり、「抗事実」「価値(〜であるべき、〜が大事)」を提示していく哲学(の一部)は、先に言いたいことがあり、その言いたいことが妥当である、正当であることを論じていくというのが実際であろうと思う。もちろん、社会科学の場合にも、研究者自らが大切であると信じる価値を、直接論じるのではなく、「事実(事例)」のなかから見つけ出してきて、“ほら、こんな「事実」があるんですよ、大切なんですよ”というふうに持っていくことがある。“自分では語らず、相手に語らせる”ということである。わたしからすれば、“正々堂々と価値を論じなさいよ”と思うわけだが。そして、そもそも“「事実(事例)」として存在するから価値がある”とはすぐには言えないのだが。



土屋 〔略〕僕は哲学でも実生活でも、問題の所在はわかるんですけども、答を導くのが苦手なんです(笑)。
□(153)

 Me, too. 哲学は問題解決型ではなく問題発見型の学問だと思う。(わたしの出身学類に求めたいのも、問題発見型のカリキュラムである。あそこは問題解決型だから、そもそもなにゆえにそれが問題だと言えるのかという点の探究が疎かであったとわたしは思う。それが問題だと言うためには価値判断を経由しなければならない。価値判断には根拠が付帯されなければならない。その根拠をどこから持ってくるか。それを教科書内容や既存の政治的合意からただすぐに持ってくるのは、「考えている」とは言えない。もちろん、本気で考えはじめたら(ということは、疑いはじめたらということをも含むから)「実務家」にはなれないのだが。)



森 小説家っていうのは、最後に「完」って書ける人のことだと思うんです。誰でも書き始めることはできます。小説家だけが話を終わらせることができる。どこで話を終わらせるか、というのが非常に難しい。
□(160)


@研究室

by no828 | 2011-07-26 16:04 | 人+本=体


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