人気ブログランキング | 話題のタグを見る

思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ
2011年 07月 28日

恋愛とは“お互いに好き合っている”という状態を達成する為の模索期間である——橋本治『女性たちよ!』

恋愛とは“お互いに好き合っている”という状態を達成する為の模索期間である——橋本治『女性たちよ!』_c0131823_14253361.jpg60(382)橋本治『橋本治雜文集成 パンセⅠ 女性たちよ!』河出書房新社(河出文庫)、1995年。

※ 単行本は1989年に同社より刊行。

 版元

 橋本治の女性論の寄せ集め。すでに発表されたもの、発表されていないもの、いろいろ。

 ちなみに、伊丹十三には『女たちよ!』がある。出版されたのは伊丹が先のはずだが、橋本治はこのあと『橋本治雜文集成 パンセⅡ 若者たちよ!』を出すのである。



 あなたに自分を省みる心があるのなら、あなたの思う“ダメ男”とは、その反対なのです。“ダメ男”とは、決して自分のことをダメ男とは思わない人種のことをいいます。そういう男と付き合わされると、あなたは一人で“あたしが間違ってるのかしら? あたしはイヤな女なのかしら、でもイライラするわ。そうするとあの人はあたしのことヤな女だっていうわ。そういう時のあたしってヤな女だと自分でも思うわ。あたしってヤな女ネ。アア、どうしよう”という悲惨な一生を送ります。そう思わせる彼氏は、だからダメ男です。今の世の中がダメなのは、こういう男が一杯いるからです。
□(21-2)



でも、大体の場合、男というものはそういう時に、憎ったらしくなって女をいじめるものなのです。だから、セックスってのは、いっくらでも激しく、燃え熾ることが出来てしまうのです。こんなことはあんまり面白い話じゃないから、普通の男はあんまり口にしません。“愛”なんてものを口にする男がどっか頼りなげで嘘くさいのは、普通の男じゃないからです。普通の男は、女を誤魔化すのはフェアじゃないからと思って、騙すぐらいなら黙ってた方がましだと思っているだけなのです。だから、男が真面目な顔をして、やさしげに“愛”なんてものを語り始めたら、眉に唾つけるしかないのです。
〔略〕男は女を愛し始めるのですが、ズーッと愛し続けるわけじゃなく、途中で憎たらしくなっていじめまわすわけです。この状態を“愛が激しく燃え熾っている”と普通は間違えて言っています。それでは、なんで愛してる筈の男が途中で女をいじめ始めるのか、という話をします。それは簡単です。“いいわ……”と言った途端に、女の人は目をつぶり、そのまんまズーッと目をつぶっているからです。
 それでは何故女の人は目をつぶるのか? それは、目をつぶっていた方がズーッと気持ちがいいからです。
〔略〕
 目をつぶっちゃう方はイイです。なにしろ気持ちいいんですから。でも、目をつぶられた方はたまったもんじゃありません。普通は、“愛してる”と言う側は、“じゃ、愛し合おう”という言葉を期待してるもんです。でも、“愛してる”と言った途端、言われた側の方は、“愛されてる”と思って勝手に目をつぶってしまいます。“いいわよ”と言うのが愛情表現だと思ってるから、目をつぶって、“サァ”と相手に自分を投げ出すのです。
〔略〕“愛し合おう”って言って“ウン”て言ったのに、事態は既に“サァドウゾ”という肉体しかないわけで、初めは男も“それが愛し合うことなんだ”と思っても段々にその肉体のドデンとしてる感じ、なんだか一人で勝手にイイと思ってる感じに頭来て、しまいにはいじめつくしちゃうようになるのです。

□(27-8)



 はたして女はセックスが好きなのかどうか? という根本的な疑問がある。〔略〕正確なところ、女はセックスよりも“愛”の方が好きなのである。なぜか? 単に、セックスはメンドクサイからである。“愛”というものは包みこむものである。だからして、女は何もしなくてただ座っているだけでも“愛に包まれる”ということは可能となるのである。
□(58)



 さて、“自主性”というのはメンドクサイ言葉である。自分の自主性だったらそんなもん自分のことだからどうとでもなるのだが、こと話が、“他人の自主性”ということになるとほとんどがメンドクサイ。他人のことは他人のことだからよく分からない。分かってはいけない、分からないということにしておくべきだというのが“人権宣言”以後の実情なのであった。他人のことを分かると「フン、分かってふりして!」と冷笑されたり怒られたりするのが現在だから、他人のことを分かったふりをしてはいけないのである。
□(127-8)



“愛している”“お互いに好き合っている”という前提が出来上がってしまったら最早それは恋愛の終りである〔略〕。恋愛というものは、結婚の足がかりを模索するものではなくして、“愛している”“お互いに好き合っている”という状態を達成する為の模索期間なのである。
□(135)

 これは橋本治『恋愛論』で論じられたことらしく、かなり前に『恋愛論』を読んだわたしは、しかしそれを覚えていない。



 私が今、「気に入らねえなァ、気に入らねえァ」と言いつつもよく聴いているのは、沢田研二の『カサブランカ・ダンディ』なのであります。〔略〕この曲の最高に気に入らないのは“しゃべりが過ぎる女の口をさめたキスでふさぎながら云々”という所で、今一番必要なのは“しゃべりが過ぎる女の口”に対しては、ひたすら耳を傾けることだと僕は思うからなのですネ。何故かというと、その女の口から聞こえてくるものというのは、いまだかつて聞いたことのない、一番新しい、そして多分今一番必要な思想だからなんですネ。
 大体男は歴史が始まってから、五千年以上も女の口を塞ぎ続けてきたんだもん、言いたいこと聞いてやるのが筋だと思うのネ。〔略〕

□(209-10)



 ローマ帝国の女ってのは結婚しても名前が変わらないんです。なぜ変わらないかと言うと、それは女の人権が保障されていないからではなくて、女というのが父親の所有物だから、「所有物として父親の名前をずっとひきずっているべきだ」という思想が根底にあるからなんですね。
□(263)

 前にどこかでこの点を読んだ。そして夫婦別姓問題を想起した。今回も同じように想起した。すなわち、“妻=女はそれまでの自分の名字を維持するべきだ”という夫婦別姓肯定派内部のひとつの立場は、つまりは“妻=女は父=男からもらった名字を維持するべきだ”を意味し、妻=女が名字をもらう主体が夫か父かで違うわけではあるものの、夫=男=父であり、結局は“名字を男からもらう”という点において変わりはなく、“女は男からもらった名字を維持するべきだ”と主張していることになる、ということである。

 だから何なんだという、その先はとくにないのだが、夫婦別姓問題は一体どこに行ったのか、ということを、ふと、思ってみたりはするのである。

@研究室

by no828 | 2011-07-28 15:26 | 人+本=体


<< 農業漁業をやめるなと言うことは...      教員ごときが子供たちに熱く何か... >>