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思索の森と空の群青

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2011年 08月 10日

「会社でのわたしはだめなんです。にせ者だから」「本物はどこ行ったの」——夏石鈴子『いらっしゃいませ』


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69(391)夏石鈴子『いらっしゃいませ』角川書店(角川文庫)、2006年。

※ 単行本は2003年に朝日新聞社より刊行。単行本と文庫本が別の出版社から出るのにはどういう事情があるのか。

版元




 「感情労働」をテーマにした小説、と Twitter の TL 上で知って、熱帯雨林に古本注文。感情労働は、看護学校の講義でも取り上げた。

 読んでみたら、受付嬢が主人公の小説であった。短大卒女子が就職活動をして出版社に採用されて受付に座ることになる。感情の使い分け、切り離し。切り離された感情の行方。切り離されなかった感情の処遇。



英語を生かす仕事といってもいろいろありますけれど、米兵相手のバーのママだって英語を生かす仕事なんですよ。あの人たちは、英語で生きている
〔略〕英語という鍵で扉を開ければ、国際人という特別な人間になれると思っている、ただ若いだけの女の子たち。〔略〕
 黒田〔=短大の先生〕はこうも言っていた。人間、変わることは簡単なんですよ、すぐできる。でも、ずっと変わらずにいることのほうが、難しいんですよ、と。

□(6-7)



 みのり〔=主人公〕が、地元の進学校に合格した時、母は喜んだ。みのりも嬉しかったけれど、受かったから嬉しかったのか、母が喜ぶから嬉しかったのか、わからなかった。
 いつまでたっても、自分の意志で、自分の行く先を決められない。大学を落ち、浪人することもなく短大に入ることにした、みのり。物事を決める時、自分の気持を基準にして決めることができない。自分の判断に自信が持てない。そんな自分は、本当に「自分」なのだろうか。考え事をする時、いつもこっそり自分の中に「母」が流れ込んでいることに気が付く。わたしは、わたし。そうは言っても、本当はこわくてたまらなかった。

□(16)



「あなたは、どこを受験したの?」
 きっと訊いてほしいんだろうな。〔略〕
「マスコミばっかりだよ。〔略〕いろんな人に会えそうだし、何がチャンスになるかわからないじゃない」
チャンス?
自分を生かすチャンスだよ
 ふーん、あなたのチャンスって有名な会社に入らないとだめなんだ、と一瞬思ったけれど、何もそんな本当のこと、他人に言う必要もない。

□(22)

 

 受付には、「気が付いた人がする仕事」というものがある。
〔略〕でも、この手の仕事って、二人人間がいたら先に気が付いてしまったほうが負けではないだろうか。気が付かないほうは、本当に気が付かないのか。それとも、気が付かない振りをしているのだろうか。
〔略〕
 気が付かないって、強いのだ。
 別に、小鉢を持っていくのが嫌なわけではない。仕事とも言えないぐらいのことなのだ。ただ、それをしないで済まそうとする宮本さんの心が嫌なのだった。

□(118-9)

 実感。でも、そればかり気にしているのも嫌だから、自分がするものだと思ってすればいい、そこから学ぶこともあるはずだ、と切り換えたほうがいい。主人公がそうしたように。



不必要な波風は立てずに、やるべきことを、きちんとする。それが会社で一番必要とされていることだ。今までは、友達かどうか、それしかなかったけれど、友達というスイッチは、会社では使わないものなのだ。それに気が付けば、なんでもないのかもしれない。
□(132)

 “八方美人である”人はみんな、“友達スイッチ”を切っているのか。“友達スイッチ”を明らかに切っている人、「切っている」と公言している人と付き合うのは、実は楽なのかもしれない(でも、そういう人と友だちにはなれないよね)。楽じゃないのは、“友達スイッチ”を入れたり切ったりする人と付き合うことだ。「大学院」という、あるいは「研究室」という、大学(学部)とは違い、会社/職場ともまた違う、よくわからない変な場所にいると、そのように感じる。「大学院」「研究室」という特殊な場所が、“友達スイッチ”を入れたり切ったりすることを求めるのかもしれないが。

 わたしも基本的には“友達スイッチ”は切っているかもしれない。意識はしていないが、そうかもしれないとは思う。しかし、ときどき本音の部分を吐露することもあり、それをきちんと拾ってくれた人とは友だちになるし、逆にわたしが拾えば、というか、わたしが拾ったことに相手が気付けば、その人ともまた友だちになる。そうして友だちができてきた。共感? みんなとそうなる必要はない。それでいいと思う。



「〔略〕その時、わたし、自分がここの社員の役を演じてるなって、感じたんです。台詞は敬語と『いらっしゃいませ』とか『失礼ですが』とかの、決まり文句を言っている。〔略〕」
□(135)

 「社員」でなくても、みんな何かしら演じているのかもしれない。演じていない人はたぶんいない。そこに問題があるとすれば、それは演じる/演じないではないような気がする。



「〔略〕じゃあ、どんな時のみのりを見て、好きになったらいいわけ?
「うーん、よくわからないけど、とにかく会社でのわたしは、だめなんです。にせ者だから
じゃあ本物はどこへ行ったの
休憩中です

□(136-7)

 「にせ者」とか「本物」とか、そのうち区別がわからなくなってくるのではないか、という気がする。「休憩中」の「本物」がいつのまにかいなくなっていることもあるのではないか、という気がする。そして、「にせ者」と「本物」との区別がわからなくなることがわるいことであるとすぐに言えるのかどうかもわからないのではないか、という気がする。

 「教師」という立場に立ったりそこから降りたり、ということを繰り返していると、その立場に立っているときの自分といないときの自分とのあいだのずれに敏感にはなる。



女の人って大変だ、とみのりは思う。人から「何歳ぐらいだろう」とまず思われ、次には「結婚しているのかな」と、思われ、その次は「子供はいるのかな」と思われる。女でいるだけで、勝手に推測されてしまう。だから、せめて自分も女なのだから、木島さんのことは「推測」しないように、とみのりは思った。
□(152-3)


@研究室

by no828 | 2011-08-10 16:35 | 人+本=体


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