思索の森と空の群青

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2011年 09月 06日

人にとって思考と認識とは人である限り続く義務であり権利であるはずだ——橋本治『浮上せよと活字は言う』

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80(402)橋本治『浮上せよと活字は言う』中央公論社、1994年。

版元(→




 購入は、白河のぶくおふにて。

 まずは著者の立場表明から。


 私は、活字=文字こそがあらゆる文化の中心となるべきものだと思っている。何故ならば、人は言葉によって思考するからだ。思考を言葉によって整理するからだ。人の中心に言葉があると言ってもよいだろう。それ故にこそ、言葉は容易に権力となりうる。〔略〕がしかし、言葉は権力ではない。言葉は、人の思考を成り立たせ、人の思考を整理し、改めて人に生きる力を与えるものだ。その力を失って、ただ言葉が人の思考を規制するだけのものに成り下がった時、言葉は権力としての鎧を厚くする。硬直した言葉はそれ自体が権力で、硬直した言葉が一切を支配するようになった時、人はその言葉で表されるような文化を捨てる。“その言葉”は捨てられて、しかし言葉自体が捨てられることはない。それなのに、何を勘違いしているのだろう。我々は、ほとんど言葉を捨てかかっている。“その言葉”ではなく、“言葉というものそれ自体”を。
□(52)



「つまらない本を読まない」というのは結構。それは識別能力の問題である。だがしかし、本を読まない=思考と認識を放棄するという由々しき事態が、平然と見過されていてはたまらない。人にとって思考と認識とは、人である限り続く義務であり権利であるはずのものだからだ。それを、思考と認識の根源であるはずの活字の側が、「活字離れ」などというイージーな造語の説明ですませてよい訳がない。〔略〕はっきりしていることは、人が本を読まなくてよいはずはないということで、必要なことは、必要な本を必要な人間に読ませることだ。「活字離れ」という言葉の罪は大きい。それを言われたがために、人は「読まなくてもいい、離れていてもいい」と、活字の必要を忘れてしまったからだ。そのことによって、自分自身の判断力を備えるということも放棄してしまった。〔略〕「若者の活字離れ」という言葉を使った人間は、恐らく「お前達、もう本なんか読まなくていいよ」と、意識せぬままにこっそりと言っていたのだ。
□(55-6.傍点省略)

 思考と認識は人間の義務であり権利。


 人は、なかなか自分のことが分からない。それがために、“批評”という他者の作業は、存在理由を持つ。
□(61)

 そう。批評は、それに批判は、これを意識して行なわれる必要がある。しかし、しばしば忘れられる。いや、ときどき。



「活字以外に文化は存在しない」というのは、他者に対する想像力を欠いた、ただの傲慢だ。活字以外にも“文化”は存在し、そして、それを整理統合発展させるために、活字という思考の根源があるというだけなのに。
□(62)

 かつて、「活字離れ」と言われた。しかしこれだとあまりにも不正確だ。〔略〕もっと物事を正確に言ってほしかった——「今の若者は、私達が読んだような思想書は読まずに、別の思想書を読んでいる」と、それだけのことだった。
□(62)

 我々が知るべきことは、「その時に逃げた若者が、どこにいたのか?」ということである。その時に若者のいた“場所”こそが、若者に逃げられてしまった古い活字の知性が学ばなければならない、“新しい現実の宿っている場所”なのだから。
□(120)

 わからないものとの付き合い方。


 日本の男達は、長い間“読む=読まなければならない”という重圧に苦しめられていた。「読む」ということは、「その中に隠された命令を拾う」ということでもある。日本の男達は、自分をよい方向に刺激してくれるような「命令」を待望して、そしていつの間にか、そのやって来ない命令を待望することに疲れてしまった。「活字離れ」という事態の正体はこれではないかと、私は思っている。
□(211-2)

 人は「救い」を求めて本を読む、という側面はたしかにある。しかし、こうなるともう自分で思考するとか認識するとか、そういうことではなくなる。活字は、人から思考や認識を奪うことにもなる。



思想を捨てた技術者は、その技術の要請だけを見て、その技術を要求する思想を見ない。
□(22)

 しびれますね。

 わたしは、大学にも大学院にも、広い意味での「技術」が重要だと思い、その技術を身に付けるために入ったが、この「技術」はなにゆえに必要とされているのかと思っていたら、哲学や思想と呼ばれるところにまで行くことになり、いまはそこに留まっている。「技術」に戻りたいのかどうか、よくわからなくなってきた。研究会、学校等でご一緒する先生からは「技術」もやりなさいとアドバイスされるのだが……。



「自分が本当は何をしたいのかよく分からない」という人間は、至って当たり前にいる。それを「本当の自分が見つからない」という哲学的な表現に置き換える人間は、それでもまだ特殊な少数ではあるけれども、「何をしていいのか分からない」という人間は、ゴロゴロいる。つまり、自分の欲望を把握出来ない人間は、いくらでもいるということである。「何をしたいのかが分からない」からこそ、「したいこと」ではなく「すること」を探す。与えられた「すること」の中にのめり込んで、それを「するべきこと」に変えてしまって、それでますます「したいこと」が分からなくなってしまった人間のことを、普通日本では「仕事人間」「会社人間」と言う。〔略〕
 人間の多くは、普通、自分の欲望を把握していない。それと似たような状態にあるものは、性の欲望に悩まされて、それの充足ばかりをついつい考えてしまう思春期の人間だけだ。彼等は、「まずそれをしたい」のであって、「それが欲望のすべてであってもかまわない」とだけ思っているのであって、決して、自分の欲望を把握している訳ではない。

□(189-90.傍点省略)

「したくないこと」というのも欲望なのであろうか。“「したくないこと」がわかっている”は、“自分の欲望を把握している”ということになるのであろうか。「したいこと」はわからなくても「したくないこと」はわかっている、という人は存外多いのではないか。



 自分の欲望とは、自分の外部にある“他者”との関係によって、自分の内部に浮かび上がるものであって、自分の外部に自分とは無関係に存在しているものではないのだ。
□(195.傍点省略)



 市ヶ谷の自衛隊に乱入して、三島由紀夫は「決起」を呼び掛けた。呼び掛けた以上、三島由紀夫にとって自衛隊員というものは“味方”だったのだろう。そしてその“味方”は、「何に対して“決起”などということをするのか」ということが、まったく理解出来ない“味方”だった。“味方”である筈のものが、“無関心”という最大の敵であることを知って、三島由紀夫は自決を図った。勿論三島由紀夫は、そんなことを初めから知っていただろう。人間という生き物にとっての最大の“敵”は、停滞する“現状”というものの中に育ってしまう無関心なのだということぐらい、作家である彼が知らない訳はない。
□(257)

 三島は、孤立を感じて自決したのか。裏切られた寂しさ? 仮に三島がそのような感情に支配されたとすれば、その前提には自衛隊への一方的な“信頼”があったということである。作家である彼は人を信頼するとは裏切りをも織り込むものであるということを知っていたのか。


@研究室
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by no828 | 2011-09-06 19:01 | 人+本=体 | Comments(0)


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