思索の森と空の群青

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2011年 10月 10日

我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる——森見登美彦『四畳半神話体系』

c0131823_1344189.jpg99(421)森見登美彦『四畳半神話体系』角川書店(角川文庫)、2008年。

※ 単行本は2005年に太田出版から刊行。
※※ 表紙デザインは、ここに掲載したものとわたしが読んだものとでは違う。

版元 → 


 森見は、たぶん、『太陽の塔』(→ )に続いて2冊目。ちなみに、未だに『夜は短し歩けよ乙女』は入手できていない。“ここまで来たら何が何でも古本105円で見つけてやるっ!”という、変な意地がその原因。

 森見の言葉遣いは硬質で(あるいは「学術的で」)独特だが、嫌いではない。本書の構造は、複数の世界の来歴とそれらの結節。所々で名言(らしきことば)にぶつかるが、文脈からするとそれを「名言」として扱ってよいものか、やや躊躇う。けれども、以下。



 成就した恋ほど語るに値しないものはない。
□(94)



可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である
□(150-1)

 今ここにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。その事実に目をつぶってはならぬ。
□(98)

我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」
□(151)

 わたしは、文学のひとつの使命は“このようにもありうる”という新たな世界像を提示することにあると考えており、森見の本書もまたそうした意味で「文学」に括られるが、にもかかわらず最初の引用において、つまり文学においてある種の可能性否定に言及しているところにおもしろさを感じたわけである。非BであるはずのAが非Bの確からしさを主張することのユーモアというか何というか。

 しかし、可能性の代わりに森見の提示する不可能性もまた、可能性の一種であるのではないか。“できるかもしれない”と“できないかもしれない”とは等価だからである。希望と絶望とが等価であるように。これら未来についてのふたつのことばを分かつのは、意志、なのかもしれない(いや、まだよくわからないが)。だから、後二者の引用においては、未来についての(不)可能性ではなく、「今ここにある己」「今ここにある君」から出発するしかないと述べられているのかもしれない。たとえがよろしくないが(でも戦いの比喩は多い。「兵站」とか)、“どのような武器で戦いたいか”ではなく、“手持ちの武器でどう戦うか、手持ちの武器には何があるか”が問われるということである。そしてこれは、課程博士を取得するときの基本的な構えであろうとも思う。“何が書きたいか”ではなく“何が書けるのか”。しかしこの「今ここにある己」と向き合い、手持ちの武器の少なさ、あるいは手持ちの武器がいかに多くてもそれを組み合わせるときに発生する難しさとやり合うのは、なかなかにしんどいことである。だからこそ(不)可能性へと“逃亡”したくなったりもする。でも、それが無用だとはわたしは思わない。


 寺山修司はかつて、書を捨てて街へ出ろと言ったそうだ。
 しかし当時の私は思っていた——街に出て何をしろというのだ、この私に。

□(300)

 ある編著の学術書に寄せられた「著者からのメッセージ」に、この寺山の「書を捨てて街へ出よう」を引きながら、“それが(研究者としての)わたしのスタンスだ”ということが記されていたのだが、それを読んだわたしは、“研究者くらいは書を捨てちゃいけないでしょ”と思ったものである——余話であった。

@研究室
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by no828 | 2011-10-10 14:10 | 人+本=体 | Comments(0)


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