人気ブログランキング | 話題のタグを見る

思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ
2011年 10月 11日

「自分で選べている」と思えるようなことほど大したことや物ではない——川上未映子『世界クッキー』

「自分で選べている」と思えるようなことほど大したことや物ではない——川上未映子『世界クッキー』_c0131823_10441261.jpg
祝 100(422)川上未映子『世界クッキー』文藝春秋、2009年。

版元 → 




 エッセイ集。哲学へと通じる道がここにある、というか、ここに哲学がある。概念や文法が大事なのではない。構えこそが大事なのだ。

 川上の思考を動かしているのは、たぶん、だけれど、大きく言うと、だけれど、“ことばと身体とのずれに対する日常の感覚”であるように思われ、だからことばに対して非常に敏感なのだと思われる。「単語の気持ち」などの川上の表現には、わたしは“ひょえー”と感嘆するしかないのである。


〔略〕〔銭湯で〕幼少の頃は想像力が追いつかなかった老女たちの体を見て、最近はああこれも、順当にいけばわたしの体の未来である、としみじみ感じるようになり、そうすると日々変化する替えの利かない自分の体を抱えながらも、そこにあるたくさんの体がすべて自分の体である、繫がっているのだと思えてくるから不思議。そんな錯覚というか実感に襲われることがある。あれもわたしだ、これもわたしだ、というように。
 なるほど個人がひとつきりの体でその人生を生き、それを指して「わたし」と言いながらも全部がわたしと感じるゆえに「このわたし」なんてものは個人を超えた大きなものの、やっぱり一瞬間でしかないような気持ちにさせられます。

□(28-9)

 普遍性、一般性、単独性、特殊性。


 それだけで個性である体をもち、全員がそうである社会では自分という現象など大したことではないという一面を徹底的に思い知る。それでもその行為や時間から、どうしようもなくにじみ出てしまうものがあるかも知れない。ないかも知れない。それは「まず個性的であれ!」という風潮が支える運動からは決して出て来るものではなく、自分が何でもないものだと、社会を通して知る所から始まるものでしかありません。
 そのときに初めて「個性的であること」が良いことなのかどうなのかを考えて叫んだって全然遅くないと思うのだけど、どうでしょうか。

□(38)

 賛成。わたしも「個性」ということばを絶叫する気にはまったくなれない。むしろ懐疑的。それを学類を講義を部分的に受け持ったときに話したら、ある先生はわかってくれた。非常勤講師先で話したら、ある生徒はわかってくれた。


 人はひとつの視点、ひとつの人生しか体験することができません。同時にふたつの場所に存在することは不可能で、その不可能性ゆえに、人々はこれまでも、これからも、物語を希求します。
□(50)

 共感。“複数の視座、複数の立場に立ってみる”ということは可能だとしても、それをしている「わたし」はひとりである、という限界のようなものをわたしは常に感じる。だから“それぞれの「わたし」がそれぞれの視座、それぞれの立場からものを言えばよい、そのことばの行き来自体が大切なのだ”と思い、だから“それぞれの「わたし」がそれぞれの視座、それぞれの立場をきちんと自覚することが大切だ”とも思うのだが、しかし“それぞれの「わたし」がそれぞれの視座、それぞれの立場を確立することは案外難しい”と思い、「わたし」と「視座」「立場」との関係はどのようにあることができるのか、ということを考えている。


 自分の人生の局面を左右する出来事や決心の多くは、いつでもきっと自分の想像を少し超えたところからやってきて、まるで事故に遭うように出会ってしまい、巻き込まれてしまうものです。

 たとえば人が何かに影響を受けるとき、それが人でも作品でも、自分が「影響を受けたい」と思ったものから必ずや影響を受けられるというわけではありません。それは例〔ママ〕えば、ある人やある音楽のことを「好きになろう」と思ってみたところで好きにはなれなかったり「おいしいから」と人に勧められて食べてみて、いくら自分がそれをおいしいと思いたくても思えないというのに似ていて、肝心なところはいつだって、自分の意識じゃどうにもならないことがほとんどです。
 そんな根本的な部分でさえそんな具合でありますから「自分で選べている」と思えるようなことほどあんまり大したことや物ではないような、そんな気もします。これは読書にも当てはまることかも知れません。「自分はとても自由な価値観のなかで、とても自由に本を選んで、とてもナイスな本を読んでいる」と思っていても、それは案外、すでに作られた枠のなかの小さな動きでしかないという可能性を、いつもはらんでいるわけです。

□(124-5)

「選択」とか「選択肢」ということをわたしはよく考える。歴史をおおざっぱに見れば、“選択できない”から“選択できる”になって、“選択肢はないよりもあったほうがよい”になって、“近代最高!”になったわけだが、“今だから言うけどさ、近代ってどうなの?”という疑いが提出されるようにもなった——わたしはそういう状況に巻き込まれ、埋め込まれ、だから「選択」とか「選択肢」とかの善性を自明視できないでいる。もちろんそれは「選択」とか「選択肢」の悪性を信奉するようになったということではまったくない。善性と悪性とのあいだを彷徨い、あるいは善性と悪性という価値規準で「選択」「選択肢」を語ること自体の妥当性をも疑い、“うおぉ”と叫びたくなっているのである。


 そしてそんな風に偶然に出会った本や物語のなかでも「面白くなかった」「まるで印象に残らなかった」「間違いなく、つまらなかった」というようなことがあったとしても、そういう本や体験こそが後々の人生においてどのような効力を発揮することになるのか、どんな影響を受けているのかはわからないわけです。何がどこでどんな具合でいったい何に、効くのか。あるいは、効かないのか。それはある子どもがどんな風に育つのかはわからない、どんな意図も準備も役に立たない結果も、またその逆もあるように、わたしたちの肝心な部分はそんな一回性に、ゆだねられています。
 できるだけ、今の自分から遠いところに手を伸ばすこと。もちろん近くも大事ですが、いつか近いところにしか手が届かなくなる日は確実にやってきますから、手足のぐんぐん伸びるうちはどんどん遠くを触ってください。〔略〕

□(127)

 前のパラグラフはそのままそっくり「教育」にあてはまる。後のは「学習」にあてはまる、というより、あてはめたいことである。


@研究室

by no828 | 2011-10-11 11:43 | 人+本=体


<< 想像力、それこそがぼくらの戦場...      我々の大方の苦悩は、あり得べき... >>