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思索の森と空の群青

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2011年 10月 14日

ものごとの本質は一般論でしか語れない場合が多いのです——村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第1部』

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祝 103(425)村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』新潮社(新潮文庫)、1997年。

※ 単行本は1994年に同社より刊行。

版元 → 




 妻が賃金労働、夫は家事労働(法律事務所を辞めた。“一応”求職中)という設定。母方の祖母に「働いている女の人と結婚するのだっていいんだよ」と先のお盆のときに言われたのを思い出した。個人的には、“研究で食っていく覚悟”よりも“研究で食えなくても研究する覚悟”のほうが大事だと思っていて(後者はつまり、職業研究者でなくても研究する覚悟ということだが)、だからたとえば主夫をしながら研究するというのも悪くないと、あまり無理をしないで思う。

 そのことにも関連するが、村上春樹を読むと、具体的な毎日の具体的な物事をきちんとしようと思うようになる。ご飯を作るとか、洗濯をするとか、シャワーを浴びるとか、本を読むとか、そういう日常をきちんとしようと思うようになる。結局そういうことが大事なのだと気付かされるのである。


 ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果して可能なことなのだろうか。
 つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。

□(47)

 他者論、他者への認識論。


「おっしゃるように、私の申し上げていることはたしかに一般論のように聞こえるでしょう」と加納マルタは言った。「しかし岡田様、ものごとの本質というものは、一般論でしか語れない場合がきわめて多いのです。それはご理解ください。私たちは占い師ではありませんし、予言者でもありません。私たちが語れるのはそのようなあくまで漠然としたことだけなのです。それは多くの場合わざわざ言うまでもない当たり前のことですし、ときには陳腐でさえあります。しかし正直に申し上げまして、そのようにしてしか私たちは前に進んでいけないのです。具体的なものごとはたしかに人目を引くでしょう。しかしそれらの大方は些末な事象に過ぎないのです。それらは言わば不必要な寄り道のようなものです。遠くを見ようとつとめればつとめるほど、ものごとはどんどん一般化していくものです
□(86)

 一般論の陳腐と具体論の些末。


「ねえ、ネジマキドリさん、あなた勇気はあるほう?」
「たいしてないと思う」と僕は言った。
「好奇心はある?」
「好奇心なら少しはある」
勇気と好奇心は似ているものじゃないの?」と笠原メイは言った。「勇気のあるところには好奇心があって、好奇心のあるところには勇気があるんじゃないかしら
「そうだね。たしかに似たところはあるかもしれないな」と僕は言った。「そして場合によっては、君が言うように好奇心と勇気とがひとつにかさなるということはあるかもしれない」

□(121-2)

 反論を考えようと思ったが、出てこない。勇気 ≒ 好奇心 の構図に収まってしまう。


金で買えるものは、得とか損とかあまり考えずに、金で買ってしまうのがいちばんなんだ。余分なエネルギーは金で買えないもののためにとっておけばいい
□(214)

 一理ある。(あるいは、一理しかない。これはお金のある人にしか当てはまらないからね。)


「『〔略〕人間の運命というのはそれが通りすぎてしまったあとで振り返るものです。先回りして見るものではありません。』」
□(273)

 人間は未来を変えられない。人間が変えられるのは未来ではなく過去だ。


@研究室

by no828 | 2011-10-14 16:36 | 人+本=体


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