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思索の森と空の群青

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2011年 10月 19日

それは必ずしも本人が悪いのではない——小谷野敦『友達がいないということ』

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祝 106(428)小谷野敦『友達がいないということ』筑摩書房(ちくまプリマー新書)、2011年。

版元 → 




 今年の5月に出た本である。が、定価で買ったわけではない。ぶくおふが105円で売っていたからである。買い手からすると嬉しいが、それでよろしいのかという気もする。

 タイトルは『友達がいないということ』であり、構成も現在の“友達問題”から出発し、そこに着地しようとしているが、そのあいだの主たる経由地、つまり本書の主な内容は、近代日本文学の担い手たちにおける「友情」についてである。

 なお、小谷野の文章は“一文一意”の観点からするとわかりにくい。“この文章は2つ、3つに分解してそれぞれ句点を打ち、接続詞をきちんと用いてつないだほうがわかりやすいのでは”と思いながら読んだ。

(自分向けメモ。「ホモソーシャル」「ホモセクシャル」「ホモフォビア」「同性愛」「ヘテロセクシャル」「ヘテロセクシズム」「レズビアン連続体」)

 本書のメッセージは次の文章に表われていると思われる。


 一人ぼっちにも、いろいろある。家族はいるけれど、誰とも心は通わず、友達もいない一人ぼっちから、友達はちらほらいるが、家族のない一人ぼっち、そして家族も友達もいないという一人ぼっちがある。
 むろん、世の中には、そんな風にして、一人ぼっちで生きている人、また過去にそういう風に生きた人は、いくらでもいるのである。人は、自分自身の性質とか、偶然とかによって、一人ぼっちになってしまうことは、あるのである。
 そして、それは必ずしも、本人の責任とは、限らないのである。むろん、本人に問題がある、という場合のほうが多いだろうが、みながそうだというわけではない。
 世の中に、そのことを認めてもらいたいと思う。友達がいない人間もいるということ、そしてそれは必ずしも本人が悪いのではない、ということを。

□(185-6)

 以下、本論との関係をあまり省みずに。


 菊池寛(一八八八—一九四八)は、友情を大切にした人である。菊池は京都帝大出身なので、漱石の弟子にはならなかったが、芥川〔龍之介〕、久米〔正雄〕らと『新思潮』に参加し、卒業後、「時事新報」の記者をしながら小説を書いていた。純文学作家として擡頭したのち、新聞に連載した『真珠夫人』がヒットして流行作家となり、『文藝春秋』を創刊してたちまち文壇のボスの地位を確立した。そして、昭和二年(一九二七)に芥川が自殺し、九年(一九三四)に友人の直木三十五が病死すると、二人を記念して芥川賞・直木賞を創設して、今日に至っている。
□(58)

 ちなみに、引用文中に登場した久米正雄は、わたしの高校の先輩にあたる人物だが、この引用文中のすぐあとに、久米が「盗作」事件を起こしたとのエピソードが挿入されており、残念な気持ちになった。


 かつては「博愛」と訳されていたし、今でもそう言う人はいるが、元来は fraternite なので友愛が正しいが、このもともとの意味は、男同士の絆という意味である。フランス革命が、自由・平等といっても、それは男、中でもブルジョワ(市民)階級の男たちのそれでしかなかったことは、今ではよく知られている。
「博愛」と訳したのは中江兆民や幸徳秋水らしいが、確かに日本人には、なぜ「友愛」が「自由、平等」と並ぶのか分からないだろう。フランス革命の思想は、貴族と平民の身分の差別をなくすことにあったが、それはあくまで男だけの話で、フランスで女性に選挙権が与えられたのは一九四五年のことである。もっとも、女性を排除した思想は何もフランスに限らない。十八世紀終りに『女性の権利の擁護』を書いたのは英国のメアリ・ウルストンクラフトという、『フランケンシュタイン』の作者であるメアリ・シェリーの母だが、この本は長らく狂人の書のように扱われており、十九世紀後半になって、ジョン・スチュアート・ミル『女性の解放』を書いてから、ようやく女性解放運動の先駆的書物として認められるようになったのである。
 平等思想の先駆とされるルソーにしても、男女の平等については考えていなかったし、兆民と、その弟子である秋水も、男女平等論には反対の立場だった。むしろ、女性解放論を唱えたのは、福沢諭吉や巌本善治のほうである。

□(66-7)

 女が女の解放を言っても聴いてもらえず、男が女の解放を言ってはじめて聴いてもらえる——発話の位置の問題。釈然としないが、聴いてもらうための“戦略”としては活用できることである。しかし、“戦略”という考え方にもわたしは釈然としていない。

 あと、兆民と秋水が男女平等を唱えなかった理由、福沢と巌本がそれを唱えた理由。


 つまり、暴力を使わないいじめのやり方の原型がここ〔忠臣蔵〕にあって、それに暴力で報復した者が死ななければならないわけである。〔略〕戦後日本では、ひたすら暴力を否定したために、「正義の暴力」というものを認めなくなってしまった。いじめられて自殺する、というような子供には、自殺するくらいなら、いじめっ子を殺してからにしろ、と言いたい。もったいないではないか。生きていたいというのであれば、殺せば殺人だから少年院へ入ったりしなければならないが、どうせ自殺するなら、殺してからのほうがいいし、いじめっ子はこの世にいないほうが世のためなのだから、殺すべきである。
 というようなことが言いづらい世の中になっているわけで、そこに、表面だけをとりつくろう社会の陰湿さがあって、それはいじめを生み出す土壌と無縁ではないのである。たとえば、いじめに遭った子供が、そのことを遺書に書いて自殺すれば、世間は騒ぐ。だが、自殺しないで世間に「あいつにいじめられた」と訴えても、世間は相手にしてくれないのである。

□(116)


セックスの相手がいない相手に、カネで相手をするのが娼婦なら、友達がいない相手に、カネで話し相手になるのが精神分析医やカウンセラーである。こんなことを書くと、侮辱だと言って怒る人がいるかもしれないが、それは娼婦に対する侮辱である。
□(146)


 ネット社会になっても、そういう〔政府、企業、マスコミ、大学などの〕「組織」に属している人は、ブログなどやらずに「保身」に走り、逆に活字媒体は、論争はネットでやってくれとばかり、きちんとした議論をさせなくなってしまった。ここ数年で、『論座』『諸君!』『現代』といった総合月刊誌が廃刊になったのは、かつてのように論争をさせなくなったからで、私は自業自得だと思っている。そういう意味では、却って悪くなっているともいえる。
□(165-6)


@研究室

by no828 | 2011-10-19 15:36 | 人+本=体


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