2011年 11月 04日
115(437)クンデラ、ミラン『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳、集英社文庫、1998年。 ※ 原著は1984年に刊行。Milan Kundera, Nesnesitelná lehkost bytí. (← チェコ語)(英語 →)The Unbearable Lightness of Being 。 版元 → ● もはや古典。ようやく読了。 ミラン・クンデラは旧チェコスロヴァキア生まれ、1929年生まれの作家。1968年の「プラハの春」以後、著作が発禁に。75年、フランスに亡命。81年、フランス国籍を取得。 □ もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴しい軽さとして現われるのである。 だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴しいことであろうか? その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押さえつけられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。 それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。 そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか? 重さか、あるいは、軽さか? □(8-9) □ 人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。 〔略〕 比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわち、無のためのスケッチであるからである。 Einmal ist keinmal (一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。 □(13) □ パルメニデースとは違ってベートーベンにとって重さは何か肯定的なものであった。“Der schwer gefasste Entschluss”(苦しい決断の末)は運命の声(“es muss sein”)と結ばれていて、重さ、必要性、価値は内部で相互に結ばれている三つの概念であり、必要なものは重さであり、重さのあるものだけが価値を持つのである。 □(46) Muss es sein? Es muss sein! Es muss sein! そうでなければならないのか? そうでなければならない! そうでなければならない! □ 「何か高いところ」を目指すかわりに酔っ払いにビールを運んだり、日曜日に弟たちの汚い洗濯物を洗う女の子は、大学で勉強し、本を開けてあくびをしている人たちが考えてもみないようなバイタリティーを自らのうちに蓄えもっている。テレザはその連中よりも多く読んでいたし、生活についてはその連中より知っていたが、それを意識することはけっしてない。大学で勉強した人と、独習者とを区分しているのは、知識の量ではなしに、バイタリティーと自意識の程度の差である。 □(71-2) □ 共産主義の国々では、市民の評定とチェックが、主なるそして止むことなくたえず続けられる社会活動である。画家が展覧会を開けるかどうか、市民が夏休みに海に行くためビザが得られるかどうか、サッカーの選手がナショナル・チームのメンバーになれるかどうかは、まずその人間についてのあらゆる評価や情報が集められ(住居の管理人、同僚、警察、〔共産〕党機関、組合)、そして、これらの評定がそのあと専門役人により集計され、考慮され、綜合的判断が下される。評定が語ることは、しかし、その市民の絵を描く才能や、サッカーをする能力、夏休みに海での療養を必要とする健康状態とは無関係なのである。関係があるのはただただ「市民の政治的プロフィル」と呼ばれているもの(すなわち、その市民が何をいい、何を考え、どのような態度をとり、会合やメーデーのパレードにどのように参加するか)である。あらゆること(日常の生活、仕事ぶり、休暇)が、その市民がどう評価されるかに依存しているので、誰でも(もしナショナル・チームでサッカーをしたいか、展覧会を開きたいか、あるいは、休暇を海で過ごしたいなら)好ましい評価が下されるようにしなければならない。 □(121-2) □ サビナはそのことをフランスの友人に打ちあけた。彼らは驚いて、「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」と、いった。彼女は共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにはより根本的で、より一般的な悪がかくされており、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写しているといおうと思った。しかし、それを彼らに説明することができないだろうということは分かっていた。そこで困惑のうちに会話を他のテーマへと変えたのである。 □(127-8) □ フランツがいった。「ヨーロッパの美というものには、いつも計画的な性格がある。そこには美への志向があり、長期の計画があって、人はそれに従って何十年もかかってゴシックの大聖堂や、ルネッサンス様式の町を建ててきた。ニューヨークの美しさはまったく別な基礎の上に立てられている。これは非計画的な美しさだ。それはまるで鍾乳洞のように人間の意志とは関係なくできたものである。それ自体は美しくない形態が偶然に、無計画に、信じがたい環境を作り上げ、そこでは奇蹟的なポエジーを輝かせているのだ」 □(129) □ フランツのほうは逆に、人がプライベートなときと公の場でまったくの別人になるという、個人の生活と公人としての生活の区分の中にあらゆるいつわりの源があることを確信している。彼にとっては「真実に生きる」ことは個人と公人の間の境をとり払うことを意味している。そして秘密は何ひとつなく、誰でもが見ることのできる「ガラスの家に」住みたいというアンドレ・ブルトンの文を喜んで引用するのである。 □(144) □ 多くの人たちは未来に逃げ込むことによって自分の苦しみから逃れる。時間の軌道に、その向うでは現在の苦しみが存在を止める線を、想像して引く。しかし、テレザの未来にはそのような線は一本も見えない。なぐさめを彼女にもたらすことができるのはただ回顧だけである。また日曜日であった。二人は車に乗り、プラハから遠くへ出ていった。 □(208) 未来への逃避、現在への忍耐 ← 共産主義、キリスト教 それじゃダメだとニーチェ → 現在! 現在! ニヒリズム! → ? □ 中部ヨーロッパの共産主義体制は、犯罪者によって作り上げたもの以外の何者でもないと考える人たちは、根本的真実を見逃している。犯罪的体制を作ったのは犯罪者ではなく、天国に通ずる唯一の道を見出したと確信する熱狂的な人びとである。その人たちは勇敢にその道を守り、それがために多くの人びとを処刑した。後になって、そんな天国は存在せず、熱狂的であった人びとはすなわち殺人者であることが誰の目にも明らかになった。 そのときになって人びとはみな共産主義者に向かって叫び始めた。あなたがたが国の不幸(貧しくなり、そして、荒廃した)に、独立の喪失(ロシアの手に落ちた)に、不正な判決による処刑に責任がある! 告発された者たちは答えた。われわれは知らなかった! われわれは欺かれた! われわれは信じていたのだ! われわれは心の底から無罪である! 争いは結局次の一点に集中した。本当に知らなかったのか? それとも、知らなかったふりをしていたのか? □(219-20) □ 当時もちろんその“Es muss sein!”(そうでなければならない!)は社会的な慣習の中に置かれた外的なものであったが、医学への彼の愛という“Es muss sein!”のほうは内的なものであった。それだけ状況は悪いのである。内的な命令法はより強力で、従ってさらに大きく反抗を叫ぶのである。 〔略〕 彼は自分がまったく当てにされていないことを理解していたが、これはこれでよかった。内的な“Es muss sein!”に強制されることなく仕事につき、毎晩職場を離れた瞬間にそれを忘れることができる人びとの幸福を急に理解した。このような至福の無関心を感じたことはこれまで一度もなかった。彼は手術室で思ったほどうまくいかなかったとき、絶望的になり、そのため眠れなかった。しばしば、女への欲望さえ失った。彼の職業の“Es muss sein!”は彼の血を吸う吸血鬼のようなものであった。 □(246-7) ↑ とくに考えさせられた。 □ たくさんの女を追いかける男の中に、われわれは二つのカテゴリーを容易に見分けることができる。一方はどの女にも自分に固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人であり、もう一方は客観的な女の世界の無限の多様性を得たいという願望に追われている人である。 □(252) □ トマーシュはいった。(その声は、たとえ意識しなかったとはいえ、相変わらず冷たく響いた。)「あの投書が誰かの助けになったかどうかは、まったく知りません。でも外科医としてなら何人かの人の命を救いました」 ふたたびちょっとの間沈黙があった。それを破ったのは息子だった。「考え方だって、人の命を救うことができますよ」 □(275) □ 全体主義的な俗悪なもの〔キッチュ〕の帝国では答えはあらかじめ与えられており、いかなる質問も取り除かれている。そのことから、絶対的に俗悪なものの本当の敵は、質問をする人間である。質問とはその後ろに何がかくされているのかのぞくことができるようにと、描かれた舞台装飾のカーテンを切り裂くナイフのようなものである。そういえばかつてサビナはテレザに自分の絵の意味をそのように説明した。前方には理解可能な嘘があり、その後ろに理解不可能な真実が透けて見えてくると。 だがいわゆる全体主義的な体制と戦う者たちは単に質問することと、疑うことによってのみかろうじて戦えるにすぎない。この者たちもできるだけ多くの人に理解でき、集団の涙を喚起させるために、自分自身の確実さと単純な真実を必要としている。 □(321-2) ↑ とくに考えさせられた。 □ そう、幸福とは繰り返しへの憧れであると、テレザは独りごとをいう。 □(374) ↑ 納得。幸福は予測可能なものでなければならない、あるいは、幸福と予測不可能性とは相性が悪い。このことと現在の社会状況とどう切り結んで考えていくか。 □ 「テレザ」と、トマーシュはいった。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」 「あなたの使命は手術をすることよ」と、彼女はいった。 「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」 □(394) 追伸:先の日曜以来、本ブログを訪れてくださる方が増えているのですが、その理由のひとつに、10月28日に紹介した『科学者の本棚』(→ ●)、この本に文章を寄せられた三中信宏先生が、ご自身のホームページでこのブログに言及してくださったことが挙げられそうであります。三中先生、どうもありがとうございました。 MINAKA Nobuhiros pagina → ● 11月3日付日録 → ○ @研究室
by no828
| 2011-11-04 17:49
| 人+本=体
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自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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