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思索の森と空の群青

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2012年 02月 23日

批評ぶりがこまやかである。あざやかである。かなしく、真摯である——山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』

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27(497)山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』文藝春秋(文春新書)、2007年。

版元 → 


 新書が続きます。

 amazon の古本。書評の勉強用に読みました。著者・訳者・編集者の真摯な仕事に対する真摯な眼差しが貫徹されています。基本的に、よいところを誉めています。温かさ、優しさというのを非常に感じました。ある点について一瞬否定したかと思っても、必ずそのあとにその点に対する逆転の肯定が待っています。すごい。しかし、仕事の甘さ・手抜きには厳しい指摘がなされています。ただそれはあくまで、仕事に対する評価であって、人に対する評価ではない。

 書評対象の本を1とすると、それに関連する知識は10以上ないと奥行きのある論評はできないのだと思いました。その本の著者をAとしたとき、そのAの書いた他の本にも目を通す。その本の主題をBとしたとき、Bを扱った別の著者による本にも目を通す。著者軸と主題軸とでどれだけの評価空間を評者が形成できているか、それがとても大事だと思いました。本書においては、著者の評価空間の幅広さ・奥深さに引き込まれました。

 書評の成功を何で評価するのかよくわかりませんが、その本を書いた者が実は伝えたかったであろうことに、そのために心を砕いたであろうことに気付き、それを拾い上げる・掬い上げる、それもまたひとつの規準であると本書から教えられたような気がします。

 あるいは、書評で取り上げた本を読者が読みたくなる——それがまた別のひとつの評価規準であるとするならば、この本は間違いなく大成功でしょう。それは読者であるわたしがよくわかることです(自分の未読書の数の多さに愕然としながらも)。

 なお、著者山村修は2006年8月に肺ガンで逝去。享年56。もう書かないのだと思うと、残念です。


 ↓ ここだけ引用しても部分的すぎてよくわからないかもしれませんが、“よいなぁ”と思った箇所です。


 秋だというのに、「麗子ちゃん」をさそって氷イチゴをたべる楽しいひととき。やがて死にゆく芥川の日々から、たとえばそんな小春日和のような時間をすくいあげてみせるところに、この小説にこめた作家の批評がある。その批評ぶりがこまやかである。あざやかである。かなしく、真摯である。
□(88.『蕭々館日録』(久世光彦、中公文庫)へ)

 ↓ 否定を肯定へ、の例を2つ。


 ここで中条省平は、もちろんそれをけなすわけではない。そうしたあいまいな表現の冗語的な繰り返しそのものが、主人公の内面の不安定さ、かれにとっての外界の不確定さ、恐怖感などを表現し、圧倒的なオリジナリティを得ていると語っていくのだ。
 それにしても、天下の百鬼園先生の文章をまず「ぞろっぺえな、だらしのない印象」と記し、それを大肯定の方向へと逆転してみせる中条省平自身の書きぶりこそ、じつに刺激的ではないかと感じ入った。

□(33-4.『文章読本 文豪に学ぶテクニック講座』(中条省平、中公文庫)へ)


〔本文引用ののちに〕
 これもまたいささか通俗的ないいぐさではあるだろう。しかし通俗であればこそ肌身にそくそくと沁みるのだし、肌身に沁みればこそ、あとの寒々しさが破滅的なのである。八十年ちかくもまえ、乱歩が抱いたのと通いあう夢の享楽であり、ニヒルの寒冷さである。

□(92.『江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島奇譚』(光文社文庫)へ)


 人は、自分が他者を評価するさいに使用した言葉で、自分も他者から評価されるのかもしれません。


@研究室

by no828 | 2012-02-23 14:05 | 人+本=体


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