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思索の森と空の群青

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2012年 03月 13日

個人が個人として生きていく、その存在基盤を世界に指し示す——村上春樹『うずまき猫のみつけかた』

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33(503)村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』新潮社(新潮文庫)、1999年。

版元 → 

※ 単行本は1996年に同社より刊行。


 (校正に疲れたので気分転換です。)

 ぶっくおふ 105 円。乱れているときには村上春樹です、やっぱり。『1Q84』が文庫化されますから(→ )、単行本の古本の値段が下がってくれることを願います。

 主にアメリカはケンブリッジの滞在記ですが、ときどき旅行にも出掛けています。「旅行中に持参した本が尽きたときの悩みは深いですね」(83)と書かれていて、すごく共感しました(わたしは悩みたくないのでいつも多めに本を持ち歩いています。そして「荷物多いね」と言われます。悩みたくないんだっ!)。


「でもね、作家があまり健康的になってしまうと、病的な暗闇(いわゆるオブセッション)がからっと消えてしまって、文学というものが成立しないのではありませんか」と指摘する人も中にはいる。しかし僕に言わせていただければ、「それくらいで簡単に消えてしまうような暗闇なら、そんなものそもそも最初から文学なんかになりませんよ」ということになる。そう思いませんか? だいたい「健康」になるというのと、「健康的」になるというのは、これはぜんぜん違う問題なのであって、この二つを混同すると話がちょっとややこしくなる。健全な身体に黒々と宿る不健全な魂だってちゃんとあるのだ——と僕は思う。
□(11)

 ↓ リチャード・ニクソンはこんなことを言ったらしいです。


Always remember, others may hate you, but those who hate you don't win unless you hate them.
このことをよく覚えておきたまえ。もし他人が君を憎んだとしても、君が相手を憎み返さないかぎり、彼らが君に打ち勝つことはないんだよ」とでも訳せばいいのだろうか。シンプルだけれど、なかなか味わいのあるいい言葉だ。僕はこれを読んで「ああこの人もこの人なりに苦労をしたんだな」と思った。

□(30)

 ↓ 村上春樹の小説観。価値としての「近代」を思いました。この「近代」は、古代にもあったのかなぁ(あったんだろうなぁ)と思ったりもします。ちなみに、個々人がその「限定された考え方」を書いていくべき、というのがわたしの最近の限定された考え方です。


 僕は学校を出て以来どこの組織にも属すことなく一人でこつこつと生きて来たわけだけれど、その二十年ちょっとのあいだに身をもって学んだ事実がひとつだけある。それは「個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つ」ということだ。これはあまり心温まる結論とはいえないけれど、しょうがない、間違いのない事実です。個人が組織に勝てるほど世の中は甘くない。たしかに一時的には個人が組織に対して勝利を収めたように見えることもある。しかし長いスパンをとって見てみれば、必ず最後には組織が勝利を収めている。ときどきふと「一人で生きていくというのは、どうせ負けるための過程にすぎないのではないか」と思うこともある。でも、それでもやはり僕らは「いやはや疲れるなあ」と思いながらも、孤軍奮闘していかなくてはならない。何故なら、個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと、それが小説を書くことの意味だと僕は思っているからだ。そしてそのような姿勢を貫くためには人間はなるべくなら身体を健康に強く保持しておいたほうがいい(おかないよりはずっといい)、と僕は思っている。もちろんこれはあくまでひとつの限定された考え方にすぎないわけですが。
□(71-4.傍点省略)

 ↓ 共感。わたしにおける本(とくに古本)のようなものです。


古いレコード集めはあくまで僕の趣味であって、趣味というのは自分でルールを作るゲームみたいなものである。お金さえ出せば何でも揃うというのでは、これは面白くもなんともない。だからたとえ相場より安いですよと他人に言われても、自分が「これはいささか値付けが高い」と思えば、それはやはり高いのである。だから深く悩んだ末に結局買わなかった。
〔略〕
 結局ケチなんじゃないかと言われそうだけれど、決してそういうのではない。生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきりに冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。そしてそういった「小確幸」のない人生なんて、かすかすの砂漠のようなものにすぎないと僕は思うのだけれど。

□(125-6)

 ↓ 消そうと意識しなくても、文字通り一所懸命になれば、自然と余分なもの・ことは消えていくのかもしれません。周りから見れば“ストイック”ということになる人は、ただ一所懸命なだけ、なのかもしれません。「別に大変じゃないよ。ほかに別のことをする余裕がないだけなんだ」、ということかもしれません。


 最近は熱心に小説を書いているので、毎日朝の五時ちょうどに起きて、夜の九時過ぎにはもうベッドに入ってぐうぐう眠るというパターンになっている。僕の場合、長編小説を書いているときにはどうやらこの生活形態が理想的パターンであるらしく、いつもだいたい自然にそういう風になってしまう。自然に眠くなって、自然に目が覚めてしまうわけだ。もちろん作家によって、人それぞれいろんな仕事時間のパターンがある。一度ある出版社の仕事用の山荘で、橋本治氏と一週間ほど一緒になったことがあるが、毎日一度夕食の席でしか顔を合わせなかった。橋本さんは夜中の九時頃からおもむろに仕事を始め、僕はだいたいそれくらいにおもむろに眠りにつくから、同じ時刻に夕食をとる以外は完璧なすれちがいだったのだ。二人で組んで、交代制でコンビニでも経営すれば便利かもしれない。
 朝食をはさんでだいたい午前十時半頃まで仕事をして、それから大学のプールで泳ぐか、そのへんを一時間ほど走るかして、そのあとで昼御飯を食べる。午後はだいたい気分転換。小説以外の仕事(翻訳とか、こういうエッセイとか)をしたりしなかったり、町にちょっと散歩にでたり、買い物をしたり、あるいは事務的な日常的な用事を片付けたりする。夕食後はたまにビデオで映画を見たりするけれど、だいたいはのんびり本を読みながら音楽を聴いている。よほどのことがない限り、日が暮れたら仕事は一切やらない。〔略〕
 という具合に、小説に集中していると生活が一貫して単純に規則的になってくる。例外的な雑多な要素が毎日の生活からだんだん排除されていく。日本にいるとやはりいろんな雑用ならつきあいが出てきて、なかなかここまできっちりと規則的にやれないのだが(やるとカドが立つし、カドが立つとなんとなく仕事がやりにくくなる)、外国にいるとそれが実行可能なので、僕としてはけっこう助かる。だからこそ長編小説が書きたくなると、いつもなんとなく外国に出てしまうことになるわけだ。

□(102-4.傍点省略)


@研究室

by no828 | 2012-03-13 18:49 | 人+本=体


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