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思索の森と空の群青

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2012年 03月 15日

批評したいという欲望をまっとうするために批評するというのが真実ではないのか——山田詠美『快楽の動詞』

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34(504)山田詠美『快楽の動詞』文藝春秋(文春文庫)、1997年。

版元 → 

※ 単行本は1993年にベネッセコーポレーション刊。


 “日本語で書く”、“文章を書く”ということを大真面目にふざけて考えた本。ぶっくおふ105円。


あの瞬間にロマンがあるかなあ。そこに行き着くまでならあるけどねえ。日本語に、いかに情緒があると言っても、あの瞬間を表す言葉はないと思うよ。日本語って本当には向かない言葉だよ」
□(20)

「男と女の関係は、頭脳と情緒が裏切り合ってるから、興味深いんじゃないの。私は、そういう人を捜し求めているのよ。人間の英知と動物の野性。私は、そ〔う〕いうものを兼ね合わせている人と恋愛したいのよ」
 ほー。一同、顔を見合わせた。誰もが、上半身が野性で、下半身が英知であったら恐しい〔ママ〕だろうなあ、と思いついたが、口にはしなかった。

□(75)


 そんなことを考えていると、私の横を不思議な髪飾りを付けた三、四人の文体が通りかかった。
「あのその髪飾り、どこでお買い求めになったの?」
 私の質問に皆、不思議そうに顔を見合わせた。
「知らないんですか?」
「ええ」
これは、ルビですよ
〔略〕
「やっぱり。もう、字数の重さが、ぼくらと一致してないんで重くって。最近、こういうことをする作家が多いんで、被害者同盟を作ろうとしてるんです。外国かぶれが多くて困っちゃいますよ」

□(111-2)


〔略〕考察だとか、分析だとか、ポストモダンだとか、エクリチュールだとか、〔略〕少しも理解出来ないが、もしかしたら、それらは、すべて偶然を装った必然ではないのかと。〔ママ〕彼は漠然と思う。〔略〕批評の視点をはからずも持ってしまった。本当にそうだろうか。批評したいという欲望をまっとうするために批評するというのが真実ではないのか。それを、ああやんなっちゃう驚いた、困っちゃうよ、批評眼なんて持っちゃってさ、こんな偶然、ぼくって不幸。ちょっと、ずるいんじゃないのか!? え!?
□(133-4)

 ↓ 解説は奥泉光。実はわたしには、奥泉の解説がこの本のなかでもっともおもしろく読めました(!)。奥泉は、山田詠美の小説に対するスタンスを“批評性の徹底”に認めます。では、書く者の「批評性」とは何か——端的にはそれは、「書く」と「読む」との両立です。そのあいだの「分裂」ということが引用文のなかに出てきますが、たしかにそれはなかなかに苦しいものです。しかし、それはしようとしなければならない。


 自分の書いたものが、いま書きつつあるものが本当に面白いのか、そう問いつづける作業が作家の読む作業なのであって、批評性が問われるのはまさにここである。〔略〕
 要するに作家は自分のなかにひとりの読者、あるいは批評家を持たねばならず、書きつつある作家は、絶えず書き手と読み手とに分裂しながら、その分裂をねばり強く保持しては原稿用紙の升目を埋め、あるいはワード・プロセッサーのキーを叩く。
 作家の批評性とは何より自己批評性を指すのであり、山田詠美という作家について、職業意識の高さや、硬派なモラリストぶりがしばしば語られるけれど、結局それを支えているのはこの批評性の強さであると考えられる。〔略〕
 あるいは文学について。〔略〕ひとつの作品が価値があるのは、必ずこれを読む誰かにとって価値があるのだという認識こそ、あらゆる批評性の出発点である。作家は自分の作品が誰にとっても面白く、誰にとっても価値があるなどとは主張できない。自分が面白いと信じるものを提出し、読んだ人が面白いと思ってくれたらいいな、と遠くから祈るのが、モラルの高い作家のありかたである。〔略〕小説は他人が読むものなのであり、だから作家の自己批評性とは、先刻も述べたように、読者という「他人」を自分のなかに保持する態度になるわけである。
〔略〕個々の作品はそれ自体が文学なのではない。文学とは様々な作品が生み出すひとつの伝統の「場」のことなのであって、ひとつの作品が伝統と関係するその関係の仕方が文学なのである。そして、そうした関係を作り出すのは、作家本人ではなく、他人である読者なのだ。古典作品が普遍的価値を持つのは、なにも普遍的価値があらかじめ備わっていたからではなく、比較的多くの読者が、時代や文化を越えて、それを面白い、価値ありと思い続けていればこそなのである。

□(192-6)

 学問とは何か——その答えが書かれています。あるいは唯一の答えかもしれません。結局そういうことなのではないかというのがわたしのこれまでの実感でもあります。だからその「関係」があるかないかが、換言すれば「位置付け(られ)る」があるかないかが、「学」かどうかを決めるのではないかと思うわけです。


@研究室

by no828 | 2012-03-15 16:10 | 人+本=体


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