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思索の森と空の群青

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2012年 03月 28日

私の方に迫ってきている。まるで自分たちを忘れては仕事はできんぞと言わんばかりに——齋藤孝『読書力』

私の方に迫ってきている。まるで自分たちを忘れては仕事はできんぞと言わんばかりに——齋藤孝『読書力』_c0131823_16382135.gif40(510)齋藤孝『読書力』岩波書店(岩波新書)、2002年。

版元 → 


 基礎の復習のため。「「単なる娯楽のための読書ではなく」、「多少とも精神の緊張を伴う読書」が、この本のテーマだ」(ⅱ)。文庫に加え、新書をも読むことが薦められています。読書リストもあります。刺激を受けます。筆者の読書への想いには共鳴します。「本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければならないものだ」(5)とわたしもわたしに対して思います。が、これを他者へ、つまり「教育欲」へとつなげられると、わたしはややたじろぎます。「若者に読書をしなくてもいいという大人は、自分の後から来る者たちが読書習慣を持たずに無知のままでいれば、自分が優位に立てるとでも思っているのであろうか」(5)。いいえ、思っていません。“自分が大切だと思う、だから、相手にも”のあいだをすぐに順接でつなぐことがわたしにはできないのです。
 私の基準としては、本を読んだというのは、まず「要約が言える」ということだ。〔略〕およそ半分以上に目を通し、要約が具体例を含んで言えるのならば、「その本は読んだ」と言えると私は考えている。(18)

 “本を読んだ”とは何か、という問いは、読んだ者を不安にさせます。その意味で、この具体的な答えはひとつの指標になります。(もちろん、要約してもすぐに“その要約は妥当か”という問いが出てきます。そして、どの規準で妥当性を問うかも、必ずしも一様ではありません。だから、要約の仕方がその人の読み方である、と言い切ってしまってもよいのかなと、そう思ったりもします。)
 読書は「知能指数」でするものではない。むしろ、本を読んだ蓄積でするものだ。〔略〕読書は、まさに「継続は力なり」がリアリティをもつ世界だ。(29)

「本をなぜ読まなければいけないのか」という問いに対する私の答えは、まず何よりも「自分をつくる最良の方法だからだ」ということだ。
 自分の世界観や価値観を形成し、自分自身の世界をつくっていく。こうした自己形成のプロセスは、楽しいものだ。
(50)

 自覚していなくても自分の世界は形成されていきますが、自覚すると、あるいは実感すると「楽しい」と思えるようになります。 
 読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。〔略〕矛盾しあう複雑なものを心の中に共存させること。読書で培われるのは、この複雑さの共存だ。(51-2)

 読書は、もちろん知性や情感を磨くものでもあるが、同時に、複数の優れた他者を自分のなかにすまわせることでもある。(69)

 著者の「教養」観がわかりました。「複雑さの共存」には同意(別の箇所で「ためらい」にも価値を与えています)。ここから“絶対視できるものは何もない!”という方向へ突き抜けないことも大事です。それは結局、“たしかなことなど何もない”という見方を絶対視しているだけになってしまいます。
現在の日本では、何かを知らないということは、恥にはならなくなってきている。
 本当は恥と感じて勉強をする方がお互いに伸びるのだが
、「知らなくたって別にいいじゃない」という安易な方向に皆が向かうことで、総合的なテンションが落ちている。
(54)

 これはすごく感じます。大学院でも競って勉強したいと思える院生は残念ながらいません(かつてはいたけれど、退学してしまった)。だからわたしは勝手に教員(全員ではない!)や学外の研究者を競争相手に見立てています。
〔略〕本を踏むことは心理的にできない。〔略〕書籍には、雑誌にはない著者の生命と尊厳が込められているように感じているからだ。(64-5)

 311の大地震で研究室でもアパートでも本棚から本が落ちて床の踏み場がなくなったときに本を踏まざるをえなかったのがものすごく悲しかったことを思い出しました。
 自分の今まで読んできた本が見渡せるというのは、非常な喜びだ。〔略〕たとえば、私の本棚を見てみると、柳田國男や宮沢賢治、フロイト、ゲーテやニーチェ、ヴァレリーやシェイクスピアたちが、狭い部屋の中で非常識とも言えるスペースをとって、私の方に迫ってきている。まるで自分たちを忘れては仕事はできんぞとでも言わんばかりに、存在感を示している。常に意識しているというわけではないが、ぼんやりと壁を見ていると(壁はすべて本棚で埋め尽くされているので)、本の背表紙が自然に目に入ってきてしまう。
 本は借りるものではなく買って読むものだという私の信念は、この背表紙にある。〔略〕したがって、本を二重に置くのはあまりいいことではない。〔略〕というのは、「探せばある」ということと、「自然に目に入ってくる」ということの間には大きな開きがあるからだ。
(70-6)

 ものすごく同意。内田樹さんも本棚の効用について書いていたような気がします。壁=本棚に憧れます。
 こうした読書会をやってみて気がつくのは、読んだつもりでも意外に読み飛ばしているところが多いということだ。あまり気にとめなかったところが、人に指摘されると非常におもしろいところであったことに気づくことが、私によくあった。
 何となく議論する、というのではなく、常に何頁のどこというように、場所を指摘しながら議論を進めた方が、全員にとって生産的だ。選んだ本が充実した内容のものであれば、たとえ読みの浅い人が指摘した箇所であっても、そこの文章に意識を集めることは無駄にはならない。
(175)

 そういう見方あるいは意義付けもありますね、たしかに。読書会をやってきてよかったなと改めて思いました。


@研究室

by no828 | 2012-03-28 17:39 | 人+本=体


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