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思索の森と空の群青

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2012年 05月 04日

僕は小説家ですから測定できないものをいちばん大事に思っているわけです——村上春樹『約束された場所で』

 長らく続いた雨が上がりました。今日は研究室にひとりではありません。


僕は小説家ですから測定できないものをいちばん大事に思っているわけです——村上春樹『約束された場所で』_c0131823_14121938.jpg71(531)村上春樹『約束された場所で——underground 2』文藝春秋(文春文庫)、2001年。

版元 → 

単行本は1998年に同社より刊行。


 昨日の『アンダーグラウンド』(→ )の続編です。にもかかわらず出版社が違うのはなぜか、と思いますが、内容はたしかに続いています。『アンダーグラウンド』が地下鉄サリン事件の被害者側に焦点を当てたインタビュー集であったのに対し、本書『約束された場所で』はその加害者側にあるオウム真理教の信者、元信者へのインタビューの記録になっています。

 科学的に考えた末にオウムに行き着いた人、思い悩みながらオウムに行った人、ふらっとオウムに寄った人。その先にあったのは、あるいはその元にあったのは、“純粋さ”であったのかもしれません。
 動機の純粋さというものについて考えるとき、現実はひどく重くなる。純粋さに排除された現実は、どこかで復讐の機会を狙っているようにさえ見える。(141)
 
 すべて測定可能なものに変えていこうとするのが「科学」である、としたら、教育学はどうするのかな、「学」を名乗り続けることにこだわるのかな、と思いました。教育の曖昧な部分を大事にするのが教育学のよいところだと考えますが、その大事にする仕方が教育学者の信奉する価値の単なる信仰告白にすぎないのだとしたら、それはもはや宗教です(という内容を教育学のゼミで発表したのはわたしです)。しかし、科学もまた宗教に行き着くのならば、あるいは科学もまた宗教の一種であるとしたら、教育学は信仰告白だから宗教であって学問ではない、という言い方もフェアではないと思いました。

 以下、「——」ないし「村上」ではじまる部分が村上の発言、それがない部分が信者ないし元信者の発言、「河合」ではじまるのは村上と対談した河合隼雄の発言です。全332ページ。

——あの、あなたは小説って読めないでしょう?
 ええ、小説読めないです。三ページくらいで忍耐力に限界がきちゃいます。
——僕は小説家ですから、あなたとは逆に測定できないものをいちばん大事に思っているわけです。もちろん僕はあなたの生き方や考え方を否定しているわけじゃありません。否定でもなく肯定でもない、いわばニュートラルな立場でお話をうかがっているわけです。しかし世の中の人々が送っている人生の大部分は、測定できない雑多なものごとで成り立っているわけです。それを全部根こそぎ測定可能なものに変えていくというのは、現実的に不可能なことでしょう。
(35)

 そうです。そういうことです。普通の結婚をして普通に子供を育てることが修行なんだよと。それが本当にいちばん大変な修行なんだよと。(66-7)

——つまり解析と直感の同時存在という〔人間が持つべき〕ものがない。もっとつっこんで言えば、解析だけやって、直感は暫定的に誰かに預けっぱなしになっている。ものの見方がすごくスタティックになっている。だからダイナミズムを持つ麻原にこうやれと言われたら、ノオと言えないんじゃないかと。(106-7)

 当時スパイ説というのが教団内で広まっていまして、嘘発見機を使ってスパイを捜しまわっていました。〔略〕でもこれは変な話で、もしグルが教団のすべてを掌握しているのなら、そんな機械を使わなくたって、スパイかどうかくらい一目でわかるものじゃないですか。そんなこともわからないで、これだけ多くの人間を解脱まで導けるのかよと、思いました。(128-9)

 オウムの本を読んでいちばん心地よかったのは、「この世界は悪い世界である」とはっきり書かれていたことです。僕はそれを読んですごく嬉しかった。こんなひどい不平等な社会は滅んでしまったほうがいいと僕もずっと思っていましたし、きちんとそう言ってくれているわけですしね。ただし僕が「世の中なんてあっさり滅んでしまえばいいんだ」と考えているのに対して、麻原彰晃はそうじゃなくて、「修行して解脱すれば、この悪い世界を変えることができるんだ」と言っているのです。これを読んで僕は上がるような気持ちを持ちました。(179-80)

でも指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。こういうの楽だなあって思いました。自分で何も考えなくていいわけですからね。言われたことをそのままやっていればいい。自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。〔略〕自分でものを考えなくていい、決断しなくていいというのはやはり大きかった。任せとけばいいんだぁって。指示があって、その指示通りに動けばいいんです。そしてその指示は解脱をしているという麻原さんから出ているわけですから、すべてはきちんと考えられているんです。(216-7)

 ロバート・リフトンという宗教学者に「終末観を中心にした教義を持っているカルトは多いけれど、終末を自分から呼び寄せ、自分からそっちに突き進んでいったのはオウム真理教しかない」と言われたことがあります。(240-1)

村上 僕は思うんですが、今の世界は何かおかしい、どこか間違っているという感じ方は、ある意味では正常です。学校が嫌い、会社が嫌い、これは当たり前ですよね。僕だってそんなもの嫌いでした。だからそういうところから離れて精神的な領域を深めたいというのは、それ自体動機としては間違っていないでしょう。だから「そんなことやめて学校に行きなさい。会社に行きなさい。それが正しいことです」なんて僕には簡単には言えない。ただしそのようなネガを飲み込むより大きなポジがあれば、それはうまく行くと思うんです。言い換えれば物語を飲み込んでいく、より大きな物語ということです。結局のところそれは善悪の勝負というよりは、スケールの勝負になるんじゃないかと思います。
 「善悪を超えたところ」という話が出たところで思い出したんですが、こんなことを言うといささかまずいかもしれないけれど、取材していて肌身に感じたことがひとつあります。それは地下鉄サリン事件で人が受けた個々の被害の質というのは、その人が以前から自分の中に持っていたある種の個人的な被害のパターンと呼応したところがあるんじゃないかということです。
(291)

河合 あれだけ純粋な、極端な形をとった集団になりますと、問題は必ず起きてきます。あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいないと、うまくバランスが取れません。そうなると、外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。(307)

河合 〔略〕我々がちょっとくらい瞑想の真似したって、僕らにも煩悩があるからなかなかうまくうかないんだけれど、その「煩悩をもってなおかつ」というのが大きな意味を持つんです。ところがこの(オウムに行った)人たちは煩悩の世界が弱すぎるんです。
村上 だからすぐに悟っちゃう。あまりにもすぐに悟っちゃう。
河合 面白いことに、あまり早く悟った人というのは、その悟りを他人のために役立てることができない場合が多いです。それに比べると、苦労して時間をかけて、「どうしてこんな悟れへんのやろう。どうして自分だけあかんのやろう」と悩みながら悟った人のほうが、他人の役に立つ場合が多いんです。煩悩世界を相当持っていて、なおかつ悟るからこそ意味があるんです。
(315-6)

 この最後の部分には比較的大きめの共感を持ちました。割り切らないことは大事だ、と言うよりも、大事なことは割り切れない、と言うべきかもしれませんが、それは博論を書きながらも考えていたことでした。それは科学ではない——と言われるかもしれませんが、そうしたら「はい、哲学ですから」と答えればよいのかもしれません。教育学の建て直しもそこからではないか、と思っています。


@研究室

by no828 | 2012-05-04 15:30 | 人+本=体


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