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思索の森と空の群青

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2012年 05月 30日

物書く人が願うべきことは、「はるか遠い読者」にも届くものを書くことである——内田樹『街場の読書論』

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85(545)内田樹『街場の読書論』太田出版、2012年。


版元 → 


 内田先生の新刊であります。もっとも感銘を受けた部分の引用からはじめます。
 書き手が「自分と同じことを考えている読者」を想定し、彼らの「そうそう」という友好的な頷きを思い浮かべながら書いているとしたら、彼が書いているのは「思想」ではなく、「イデオロギー」である。
 思想とイデオロギーの違いはそこに存する。
〔略〕
 物書く人が願うべきことは、何よりも「はるか遠い読者」にも届くものを書くことである。私はそう信じている。空間的に遠く、時間的にも隔てられた読者が読んでもなおリーダブルであるようなテクストだけが書物の名に値する。
(395-6)

 意識することを心がけたいと思います。ちなみに、小川百合『英国オックスフォードで学ぶということ』(→ )にあった、なぜ本にするのか、というくだりを思い出しました。

「私はこのように思う」という判断を下す瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか? この言明が真であるという根拠を私はどこに見出したのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ……(以下無限)。
 ということは「すぐ頭のいい人」においては必ず生じるのであるが、ここで「ああ、わかんなくなっちゃった」という牧伸二的判断保留に落ち込まず、「いや、これでいいんだ」と、この無限後退(池谷〔裕二〕さんはこれを「リカージョン」〈recursion〉と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく、生産的なものと感知できる人がいる。
 真に科学的な知性とはそのような人のことである。
(72-3)

〔略〕宗教や哲学や文学などについて論じる場合は〔略〕論文の主題がしばしば「論文を書きつつある主体自身の思考の手続きや文体そのものが歴史的条件や個人的なバイアスによって規定されており、論文を書きつつある主体がみずからのこの被投性を遡及的に問う」という面倒な作業を伴う〔略〕。(281)

 この点を認識している人とそうでない人と、そのあいだの隔たりはなかなかに深いと思います。わたしも十分に認識できているとは思いませんが、少なくともそれに気付いてはいます。認識した、ではなく、気付いた、というレベルだからかもしれませんが、気付いていない人、認識していない人とのコミュニケーションの難しさはかなりあるとの実感があります。十分に認識していれば、そんなこともないかもしれません。逆に、認識している、気付いている人同士では、議論が通じやすいということがあります。そこに甘んじることなく、その隔たりを埋めるほうに知的資源を投じていくことが必要なのかもしれませんが、わたしの「位置」からではそれが難しいとも感じています。

 教師もそうである。教師にほんとうに必要な資質は、子どもたちのうちに、まわりの誰も(本人さえも)認識できない「埋もれた才能」を感知して、それが開花するまでの長い時間を忍耐強く待ち続けることのできる能力だと私は思っている。(183-4)

 「存在するもの」と「存在しないはずのもの」とのあいだ。かなり惹かれるところです。

 でも、いったん「極端」まで行ってから「戻ってきた」人の方が、はじめから「そこ」にいる人よりも、自分がしていることの意味をよく理解しているというのは経験的にはたしかなことです。(241)

 マルクス主義へ人を向かわせる最大の動機は「貧しい人たち、飢えている人たち、収奪されている人たち、社会的不正に耐えている人たち」に対する私たち自身の「疚しさ」です。
 苦しんでいる人たちがいるのに、自分はこんなに「楽な思い」をしているという不公平についての罪の意識が「公正な社会が実現されねばならない」という強い使命感を醸成します。〔略〕世界中のどの国においても、青年たちの成熟のための階梯は「弱く貧しい人々への、共感と憐憫と疚しさ」を経由せざるを得ないということに変わりはないと私は思っています。
(243-5)

 必ずしもこのコンテクストに沿わずにわたしの頭に浮かんだのは、わたしを含め「開発」について考えている人たちでした。そういう人たちにとって、その「疚しさ」とは「戻ってくる」ための「経由」地点、折り返し地点なのか。むしろ、それはかつてどこかにあったものではなく、常に意識しているものではないのか。「マルクス主義」へと直結しない「疚しさ」のありかたとは? ということを考えました。


@研究室

by no828 | 2012-05-30 14:16 | 人+本=体


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