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思索の森と空の群青

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2012年 08月 27日

重要なことは読書の最中に起こってしまい——高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』

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132(592)高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』朝日新聞社(朝日文芸文庫)、1995年。

単行本は1992年に朝日新聞社より刊行。

版元 →  ただし、品切れ・再版未定。


 文芸評論集。橋本治のことを肯定的に評価した文章がありました。日本の文壇はなぜ橋本治を無視しているのか、とも書かれていました。内田樹も同様のことを書いていましたね。

 ↓ 高橋源一郎は以前ツイッターで鶴見俊輔の教育論に触れていたことがありました。わたしはそれを読んで高橋源一郎を信用しようと思いました。
 鶴見俊輔をはじめて読んでから二十五年以上たった。以来ずっと、今日にいたるまで、わたしは鶴見への敬意を失ったことがない。思想家がどういうものなのか、またどうあるべきなのか、わたしにはわからない。だが、「最良の思想家」という時、わたしが思いうかべるのはいつも鶴見俊輔だった。「最良の思想家」はおそらく「最良のことばの使い手」でなければならない。わたしは鶴見俊輔の「ことばの使い方」に魅せられつづけてきたのである。鶴見俊輔の文章は誰の書いたものよりわかりやすい。それは考え尽くしたあげくにでてくる思考の上澄みの「透明さ」のようなものだ。だが、それだけで鶴見の魅力を理解することはできない。
 鶴見俊輔は(もしそんなものがあるとして)「言文一致」の理念を生きてきたのではないか。最近、わたしはそんなことを考えるようになった。「言文一致」の理念でわかりにくければ、ことばというものを素直に信じることができないという思い、といいかえてもかまわない。「言文一致」はいつも、自らを表現することのできることばを求めてはじめられ、そんなことばを見つけたと思った途端に忘れられる。鶴見が立ちつづけたのは、「言文一致」を求めて心が噴出する最初の瞬間だったのである。
(「まる子とジョイス」86-7)


 ↓ むおぉ、と思いました。
 わたしはこの文芸時評のために毎月平均して、十二日から一六日をあてている。そのほぼ半月の間に、だいたい三度、本の買い出しに出かける。そして、部屋の真ん中に本の山を作ると、別の山に腰を下ろし、右手にボールペンを持ち、山のてっぺんから読みはじめる。いったん読みはじめると、なにが起こっても席を立たない。例外は「ごはんですよ」もしくは「競馬やってますよ」という家人の声だけだ。わたしの考えでは、重要なことは読書の最中に起こってしまい、結果として書かれたものはほとんどその脱け殻だけなのである。だから書評であれ、文芸時評であれ、つまらないに決まっている。どうしても書かねばならないなら、少なくとも対象となっているその本の二倍の長さが必要なのだ。(「「脱線」について」186)


 ↓ これは胸に刻んでおこうと思いました。
 もの書く人はそれだけで不正義である——作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセイを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。ものを書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。(「威張るな!」198)


@研究室

by no828 | 2012-08-27 18:12 | 人+本=体


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