139(599)村上春樹・稲越功一『使いみちのない風景』中央公論社(中公文庫)、1998年。
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文章+写真。中公文庫の村上春樹は、なかなか渋いと思います。
つまりある程度の期間その場所に腰を据えて生活をすれば、それはおそらく「住み移り」の場ということになるし、短い期間でそこを通り過ぎていくのであれば、それはおそらく旅行の場ということになる。
僕の場合で言えば、そこで日々の料理を作り、仕事机をセットし、一応の本と音楽を揃えて——、というのがその「生活をする」ということの具体的な定義になるだろう。
もう少しつっこんで言うなら、「住み移り」という行為には〈たしかに今は一時的な生活かもしれないけれど、もし気にいれば、この先ずっとここに住むことになるかもしれないのだ〉という可能性が含まれている。僕はそういう可能性の感覚を、あるいはコミットメントの感覚を、愛しているのかもしれない。(26-7)
仮の住処と思っていた場所にもう随分と長いこと住んでいますが、それを経ての実感は、どんなに短い予定でも、住むときはちゃんと住む、ちゃんと生活することが大事だ、ということです。
「いや、ここには何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」
でも僕らがそのときに目にして、そのときに心をかきたてられたものは、もう戻ってはこない。
写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。
でも、それもまた悪くはない。
僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから。(108)
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