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思索の森と空の群青

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2012年 11月 07日

教育学の修士号を持っている人なんかより役に立つこともある——ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』

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160(620)グレイス・ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』村上春樹訳、文藝春秋(文春文庫)、2005年。

版元 → 

原著は1974年に、訳書単行本は1999年に同春秋より、それぞれ刊行。


 短篇集。短篇は(わたしにとっては詩と同様に)行間が広すぎるので読みにくいところがあるのですが、ときどき、カチッ、カチッ、とはまります。

 「長距離ランナー」299ページに「第二呼吸」、ルビは「セカンド・ウインド」とあるのですが、これは文脈からすると「ランナーズ・ハイ」と同義かと思われるのですが、だとすると「ランナーズ・ハイ」は和製英語なのかしら、と思うわけであります。ちなみにわたしは、元長距離ランナーです。

 私は一人の相手と終生夫婦でありたいと望んでいた。前の夫とも、あるいは今の夫とも。どちらも一生かけてわたりあえるくらいしっかりした人物であった。そして、今になってみればわかることなのだが、人の生涯なんて、実はそれほど長い期間ではないのだ。そんな短い人生の中で相手の男の資質を知り尽くすことなんてできないし、あるいはまた相手の言い分の根底にたどりつくこともできやしないのだ。(「必要な物」17)

傑出した祖父やら叔父やらについてのファミリー・アーカイヴを手元に持っているというのは、あるいは文書ではなくてもいくつかの思い出話を持っているというのは、けっこうきついものなのだ。とくにその人が六十だか七十だかになっていて、身内にものを書ける人が一人もいなくて、子どもたちは自分の生活に追われて忙しいというような場合にはね。自分が死ぬことによって、自分が引き継いだものがみんなあっけなく無に帰してしまうというのは哀しいことじゃない、と彼女は言った。そうかもね、と私は言った。たしかにそのとおりだ。私たちはもう少しコーヒーを飲み、私は家に帰った。(「負債」22)

「終わりさ」と彼は言った。「なんていう悲劇だ。ひとりの人間の終わり」
「ちがうのよ、パパ」と私は懇願するように言った。「そこで終わらなくたっていいのよ。彼女はまだ四十そこそこなのよ。時がたてば、彼女はどんどん変わっていって、まったく別の人間になることもできるのよ。先生かあるいはソーシャル・ワーカーにでも。なにしろもとジャンキーだもの! そういう人間のほうが教育学の修士号を持っている人なんかより役に立つこともあるんだから
(「父親との会話」256)

 「教育学の修士号」というのは55ページにも出てくるのですが、グレイス・ペイリーは「教育学の修士号を持っている人」とのあいだに何か嫌な思い出があるのでしょうか、あるいはアメリカにおける「教育学の修士号」の位置付けは“その程度”なのでしょうか。まぁ、わからないでもないのですが……。

 
@研究室

by no828 | 2012-11-07 16:53 | 人+本=体


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