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思索の森と空の群青

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2013年 05月 02日

子供のことが分からないけど、分かりたい——伊坂幸太郎『SOSの猿』

子供のことが分からないけど、分かりたい——伊坂幸太郎『SOSの猿』_c0131823_1801719.jpg伊坂幸太郎『SOSの猿』中央公論新社(中公文庫)、2012年。36(691)

単行本は2009年に同社

版元 → 


 2つの物語の交錯。伏線が小気味よく回収されていきます。伊坂作品はどれもそうですが(そのはずですが)、巻末に参考文献が掲載されているのが個人的にはよいと思っています。

 私の現実的な感覚からすると、「悪魔が憑いていることが恐ろしい」としか思えないのだが、神父はその逆で、「こんな恐ろしい言動をする彼女に悪魔が憑いていなかったら」そのことが恐ろしいと感じていたのだ。
 言われてみて、はっとした。
 確かに、人間のやる愚かな行為が、悪魔の仕業であるほうが救いがある。原因や理由が分かるからだ。
(31)

 以前、テレビのワイドショー番組で、幼児虐待のニュースの際、訳知り顔の司会者が、「愛するわが子にこんなことをする母親がいるなんて、信じられません。人間の屑ですよ」と憤懣やるかたない表情を浮かべていたのを見て、「そうだろうか」と五十嵐真は首を傾げたくなったことがある。
 その母親の置かれていた状態を充分に知らないうちから、「人間の屑」と断定できることのほうが不思議でならなかった。
 その母親は、子供の世話に精神的にも肉体的にも疲弊し、睡眠不足で朦朧とし、さらには家族や親族の手助けも得られず、鬱々とした毎日を過ごしていたのかもしれない。
 もちろん、子供を虐待してもよろしい、と言うわけではない。が、「そんな母親がいるなんて、信じられません」と言い捨てることはできない。
(81)

「なぜなら、家族以外の第三者が、利害関係のない誰かが、『良くなりますように』と祈ることは、誰かを助けたいと思うことは、ひどいことではないはずだからだ。悪いことではない」
「効果がなくても?」
「そう。良い効果はなくても、悪い効果があるわけでもない
 ロレンツォの父親のその言葉に、私は同意した。ほっとした、と言ってもいい。救いを求める人間を見かけるたび、「どうにかしてあげたい」という気持ちに駆られ、結局何もできない無力な自分に、ほとほと嫌気が差していた私は、「自分のそういう思いも、それほど悪いものではない」と慰められた。
(105)

「そうじゃないけど、それくらい分かるわよ。親子だから」
 子供のことは分かります。親ですから。
 自信満々に言い切る親には注意を払いなさい。それは、ロレンツォの父親が、教えてくれたのことの一つだった。「分かる、と無条件に言い切ってしまうことは、分からないと開き直ることの裏返しでもあるんだ。そこには自分に対する疑いの目がない」
〔略〕
「では、親はどうすればいいんでしょう」と訊ねた私に、ロレンツォの父親は頰を緩ませ、「『子供のことが分からないけど、分かりたい』そう思ってるくらいがちょうどいいんじゃないか」と言った。
(122)

不信感は、その人が失敗するから生まれるわけではありません。失敗を認めないことから生まれるんです(183)

 わたしはそこで、「そうか」と納得した。やはりユングの言葉が頭を引っ掻いたのだ。「個人的な病気や苦悩を、もっと普遍的な、人類全般の問題に結びつけることは、その個人に対する治療という意味でも、効果的なんです」と話している。(351)


「何ステレーションですか?」
コンステレーションです。もともとは、『星座』という意味らしいのですが、日本語だと『布置』とも言います」
「はあ」
「ばらばらに存在している星が、遠くから眺めると獅子や白鳥に見えますよね。それと同じように、偶然と思われる事柄も、離れて大きな視点から眺めると、何か大きな意味がある。そういった、巡り合わせのことを指すんです。『意味のある偶然』ですね」
(304)

 以前、「布置」を題目に入れた研究発表したことがあります。そうしたら「これは何? どういう意味? 英語だと何?」と訊かれました。説明をしましたが、“わたしのわからない言葉を使うな、現代思想だか何だか知らないけれどもそういうのはわからない、わたしのわからない言葉を使ってわたしを馬鹿にしているのか、どうなのか”のようなことも言われました。わからない言葉があればわからないと素直に言えばよく新たに勉強すればよいのではないかと思うのですが、それはわたしがまだ若いからかもしれません。ただ、若くなくなっても“それ”を知らない自分を恥じずに自分の知らない“それ”を使用した他者を責める、ということはすまいと思いました。ただ同時に、わたしもかなり場違いなところで発表したことは間違いなく、だからわたしにも非があり、やはり場違いであることも再確認しました。そういうわけで「布置」には苦い思い出があります。あのとき「「布置」は伊坂幸太郎も使っています」と応答すればよかったですね。

@研究室

by no828 | 2013-05-02 18:19 | 人+本=体


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