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思索の森と空の群青

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2013年 07月 28日

仕事でつらいことをやらないといけない人間は、悶え苦しんでやらないと——伊坂幸太郎『モダンタイムス』

仕事でつらいことをやらないといけない人間は、悶え苦しんでやらないと——伊坂幸太郎『モダンタイムス』_c0131823_113046100.png仕事でつらいことをやらないといけない人間は、悶え苦しんでやらないと——伊坂幸太郎『モダンタイムス』_c0131823_1131971.png伊坂幸太郎『モダンタイムス』上・下、講談社(講談社文庫)、2011年。62(717)

単行本は2008年に同社

版元 →  


 「モダンタイムス」といえばチャップリンですが、伊坂作品も現代社会に対する批判の構えをチャップリンから引き継いでいるように思われます。「国家」や「システム」に対する批判、というより、「国家」や「システム」(への批判)に対する感度が低下した人間に対する批判です。

 本書は、『魔王』(→ )と『ゴールデンスランバー』(→ )と接点が多い作品です。「登場」人物に重なりがあります。

一番の恐怖は想像力から生まれるんだ。あいつの指に何が起きたのか、想像すればいい」(上.100)

「人ってのは毎日毎日、必死に生きてるわけだ。つまらない仕事をしたり、誰かと言い合いしたり。そういう取るに足らない出来事の積み重ねで、生活が、人生が、出来上がってる。だろ。ただな、もしそいつの一生を要約するとしたら、そういった日々の変わらない日常は省かれる。結婚だとか離婚だとか、出産だとか転職だとか、そういったトピックは残るにしても、日々の生活は削られる。地味で、くだらないからだ。でもって、『だれ〔ママ〕それ氏はこれこれこういう人生を送った』なんて要約される。でもな、本当にそいつにとって大事なのは、要約して消えた日々の出来事だよ。子供が生まれた後のオムツ替えやら立ち食いソバ屋での昼食だ。それこそが人生ってわけだ。つまり
人生は要約できない?
ザッツライト
(上.202)

偽善とは何だ?」私はふと、訊ねている。
「本当は大した人間でもないのに、いい人間のふりをしてるってことだ」
それが悪いのか? 誰に迷惑をかけるんだ? 本当はいい人間なのに、悪いふりをしている奴のほうが傍迷惑じゃないか」
「善人のふりをして人を騙す奴がいるだろ」
「人を騙さなければ? いい人間のふりをするのは悪なのか? 善き人間であろう、と振る舞うことは悪くないはずだ」
(上.206)

「想像力と知覚が奪われる?」
自分たちのはめ込まれているシステムが複雑化して、さらにその効果が巨大になると、人からは全体を想像する力が見事に消える。仮にその、『巨大になった効果』が酷いことだとしよう。数百万の人間をガス室で殺すような行為だとしよう。その場合、細分化された仕事を任された人間から消えるのは
「何だい?」
『良心』だ
(上.278)

国が、国民のことを考えずどうするのだ、と私は半分笑いたい気持ちだったが、その際、自分の頭に浮かんだ、「国」という主語がいったい何を指すのか、それも明確ではないことに気づく。(上.279)

「そうじゃなくて、そんなにシンプルにはできていないってことじゃないかな。世の中の荒廃も、貧困も、憎しみもね、誰か一人とかどこかのグループのせいだ、なんて名指しできないわけ。分かりやすい悪者はどこにも、いない。潤也君の考えによればね。どの悪人も、結局は何かの一部でしかないんだって。犬養さんもその一部だったんだろう、って。というよりね、犬養さん自身も一度、ぼそっとこぼしてたんだよ。結局、自分はシステムの一部に過ぎない、って」(下.74-5)

「おまえは、システムを設計するシステムエンジニアだ。それに比べて、世の中を覆うシステムには、システムエンジニアが存在しない。誰かが作ったものではないんだよ。独裁者はいない。ただ、いつの間にかできあがったんだ(下.183)

「正確には、監視されているんじゃないか、と思わせるだけだ。それだけで十分、効果はある。いいか、監視や命令は必要ないんだ。ある程度、枠組みを作ればあとは、勝手にうまく動いていくもんだ(下.246)

「いいかい。人間は今まで、次の世代の人間を教育することで歴史を続けてきた。人間は教育されなければ、社会を担うことができない」
「そういう側面はあるかもしれませんね」私は曖昧に同意する。
ただ、どのように教育すれば人間は適切に育つのか、そのことに正解は発見されていない。およそ何百年、千年以上もの間、大人は子供を教育してきたにもかかわらず、ほとんどが場当たり的で、思い付きの教育だった、と言える」
(下.264)

「俺たちの生きている社会は、誰〔ママ〕それのせいだと名指しできるような、分かりやすい構造にはなっていない。さまざまな欲望と損得勘定、人間の関係が絡み合って、動き合っているんだ。諸悪の原因なんて、分からない。俺はその考え方は正しいと思う。図式のはっきりした勧善懲悪は、作り話で成り立たないんだ」
「まあ、そうかもね」佳代子が同意している。
ただ、そう考えていくと、最終的に辿り着くのは」永嶋丈は首をぐるっと回した。運動選手の準備運動にも見える。
「辿り着くのは?」大石倉之助は、緒方から離れ、身体を震わせながら椅子に寄りかかった。
虚無だ
(下.383)

仕事だからやらざるをえない、それは分かる」佳代子の目は怒っているようではなく、これからバーゲンセールにでも出かけるかのような喜びに満ちていた。「だけどね、開き直ったらおしまいなのよ。仕事でやったとしても、悪いことをしたら、しっぺ返しがくる。というより、誰かを傷つけたら、それなりに自分も傷つかないと駄目だと思うの。仕事でつらいことをやらないといけない人間は、悶え苦しんでやらないと
「悶え苦しんで?」永嶋丈が訊ねる。
そう。くよくよ悩んで、だけど仕事だからやる、それなら分かるけど、ただ、何も考えずに人を傷つけて、きゃっきゃっと騒いでるのは駄目だね
(下.390)

 この最後の引用部分は、実はわたしが博士論文で辿り着いた結論とほぼ同型であります。もちろん伊坂作品とわたしの論文は、その主題も内容も文脈も異なります。が、結論(めいた部分)の型だけを取り出せば、それはほぼ同じです(とわたしは思いました)。システムへの抗いという問題意識はたしかに共有していますし、抗うためにはどうするかという方法的な問いも部分的に共有しています。が、わたしは“システムがシステムへの抗いをも含めてシステムとして成立していると想定するならその抗いはシステム存立の栄養を供給しているだけでありその意に反して抗いにはならないのではないか”という諦念めいた考え、上掲引用の言葉で言えば「虚無」にも軽く取り憑かれ、立論の軸をその抗い方には置きませんでした。ただ、“いつの間にか出来上がったシステムはそれなりの事情があって出来上がってそれなりの事情があって維持されてきたのだからこれからもそのままでよい”という態度を「保守主義」と呼ぶなら、わたしはそれには与しようとは思いません。

「いえ、ぜんぜん違いますよ。僕は、道筋を作ってもらったり、きっかけをもらえればいろいろ頑張れるんですけど、最初の閃きみたいなのはできないんですよ。よく言うじゃないですか、ゼロから一を生み出す能力って。僕は、一を二にして、三にして、百にして、というのならできるんですけど、ゼロからは無理です(上.124)

 この点は、上掲の一連の引用とは趣旨を異にしますが、わたしが日頃よく思うことです。わたしは、この「僕」と同様に、一がないと何もできないタイプだという自覚があります。「最初の閃き」が弱いです。だから実は研究者には向かないのではないか、と思うことがあります(よくあります)。しかし、よくよく考えてみれば、現在の学問はこれまでの積み重ねのうえにあるのであって、それは一であり二であり百でもあると見ることができます。だからわたしの前にはすでに一や二や百があるのであって、わたしはそこにさらに積み上げ、あるいは必要ならそこを崩して積み上げなおせばよいのだ、とも思います。だから「最初の閃き」が弱いわたしでも研究を続けられそうだ——という何だか自分を説得するような文章がここに書かれることになりました。

@研究室

by no828 | 2013-07-28 13:05 | 人+本=体


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