思索の森と空の群青

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2014年 04月 02日

つまりぼくは殴ってる仲間なんです——埴谷雄高・立花隆『無限の相のもとに』

c0131823_18231524.jpg埴谷雄高・立花隆『無限の相のもとに』平凡社、1997年。131(786)

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 小説家 埴谷雄高への立花隆のインタビューの記録。『死霊』は未読です。が、本書『無限の相のもとに』のなかには共感する部分もあり、とくにもし今回の引用文にあるような思想が『死霊』において展開されているのだとしたら、それは読まなければいけないなと思います。埴谷雄高は人間が人間であるための条件を突き詰めた人なのだと思います。しかしその突き詰めたその突端の「堕胎」の部分は、簡単には呑み込めません。

「自同律の不快」という概念が埴谷雄高にとっては重要なようです。「自同律の不快」とは、「“存在は存在である”といった場合、全存在形式を予覚させず、現在の一存在形式の枠のなかへだけ私達を永劫に縛っておくことしか生じないのですが、我々が生まれると同時に、こうとしか考えられず、こうとしか存在し得なく閉じこめられていること自体がぼくにとって“屈辱”であるという意味なんです」(138)。いまここにこのように自分があることの不快、存在のこれとは別様のあり方を求め続ける態度、現今のこの存在のありように安住しない姿勢、とも言えるかと思います。

 それから、ライプニッツは埴谷にとって何であったのか、気になりました。本文中には論及はなかったと記憶しています。


埴谷 ぼくが言うのは、「自同律の不快」というものを持たなければ、あらゆる存在は存在的価値を持っていない。「自同律の不快」というのは絶えず満たされない魂を持っていて、満たされよう、満たされようと思って絶えず満たされる方向へ向かっていく。これがぼくの宇宙の原理なんです。その満たされざる魂を持っているのが宇宙の原理だけどね、ぼくもある意味でヘーゲル的なんですね。(215)

埴谷 党のことに入る前に、ぼくが台湾の新竹で生まれたということは、やはりひとつの決定的要素です。植民地支配をしている国民は非常に残酷に現地人を扱うわけなんですよ。〔略〕「バカッ」と日本人がトロッコを押している台湾人を殴ったりする。「まごまごしたら死ぬじゃないか」とか言って殴るわけです。子供ながら、人が人を殴っているのを見るのはとてもいやなもんなんです。あの当時は、親父が女房を殴る。ぼくの親父に対する反感はとてもすごいもんですよ。〔略〕子供心に、親父に対するいちばんの反感は、親父は横暴であるということですね。それと同じように台湾人にとって日本人が横暴であると、これは幼い感覚です。感覚としていやだと。これが歳とってからの反植民地理論とかそういう大きな理論とか感情じゃなしに、直観的に、あぁいやなことをするなと。
 そしてそういう時に抵抗しないんです。殴られっぱなしなんです。〔略〕〔日本人は〕威張っていることがまた自分の存在証明なんですね。俺は日本人だ、おまえは台湾人だというふうに。これが何となく日本人嫌い、生物嫌い、存在嫌いというような素地を植えつけた。ぼくの思考様式は分裂型ともいえるんですけど、この分裂型思考方式の始まりは台湾で育ったということ。とにかく自分の存在に違和感を覚えるということですね。親父たち、自分たちの親の仲間が台湾人を殴っている。同じ日本人なんですよ。つまりぼくは殴ってる仲間なんです。
(23-6)

埴谷 どうしても刑務所で壁ばかり眺めていると、壁の向こうはパスカルは、「われわれは本源と究極は見ることができない、われわれが生まれてきた本源もやがて入りゆく究極も見ることはできない」と言うけれども、思考というものはその見れない本源と究極を見たいわけなんです。絶対見れないけれども見たくなる。(69)

立花 あの時、埴谷さんに「超能力というのは人の首を切って元に戻せますか、そこまでいかないと超能力とは言えません」と言われてね、それはその後、ぼくはその論理をいただいていろいろなところで使ってますけどね。(93)

埴谷 読書ってものは普通のものを普通に読んでて、読んでるうちに、あ、こういうこともあり得るんだと思わなきゃ。実際はないけど、あり得ると思うことですね。(103)

埴谷 他の出現宇宙、のっぺらぼう宇宙とかいろんな宇宙がある。その出現宇宙ばかりじゃなくて未出現宇宙に対しても価値判断を持っている。出ようと思って出なかった宇宙がたくさんある、これは無限にある。そういう価値判断をするためにぼくが考えているのは、そういう否定されたり価値判断されてる宇宙の何ものかが出てきて横で何かを言うってことなんですよ。(105)

立花 例えば、あり得たけど起こらなかった過去というのがありますね。これは「虚体」ですか。
埴谷 未出現の「虚体」の中に入っているんです。ぼくはそれを未出現と言うんです。出現と未出現と両方とも「虚体」なんです。〔略〕無限に近いのは未出現のほうで、なぜ未出現が多いかというと、やはり存在することはいやなんですね。自同律の不快なんです。
(178)

埴谷 ぼくは存在が意識を決定してるんじゃなくて意識が存在を決定するという、カント的なんですよ。カントはやはり主体が客体を決めると。そういう考え方にぼくはなっちゃってるんですよ。ということは、人間のインテリジェンス、知性――丸山真男さんの言う理論信仰――そのもので人間が人間になった。知的な分析で真実が真実であるという証明ができるようになったことが人間だということです。その真実を拡張するためにぼくは妄想実験をやってるわけであって、真実を宇宙的にまで拡大しようと思ってる。(133)

立花 『死霊』の中で、単細胞生物がメス・オスに分かれたときから堕落が始まったんだと述べてますね。あるいは、人間にできる最も意識的な行為として、自殺と子供を作らないことと二つあるということをお書きになってて、実際でも奥さんに絶対子供を作らせなかったというのがありますね。
埴谷 さっきニヒリズムということがありましたけど、自分でいろんなことを考える決着がつくまでは子供は作らないとは思ってた。いまだに『死霊』は終わらないんだから決着つかないですね。そういう点では、ぼくの女房は非常に気の毒だった。「オレ自身は考えるために生きてるわけであって、子供を作るために生きてんじゃない。ダメだ!」って、これこそスターリン。
 それでね、ぼくが女房に悪いのは、三度ぐらいできたかな、全部堕胎したんです。戦前の堕胎は堕胎罪なんです。全部、女房が堕胎をする医者を見つけて堕胎するわけです。それで、三べん堕したあと、子宮が非常に悪くなって戦争中でしたけど子宮自身を取っちゃった。〔略〕戦後、子供が親のことをいじめるというのがずいぶん出てきた。そしたら、「子供がなくてよかったねえ」と女房が言ったけれども(笑)、それはずーっとあとになってからの話で、昔はうんと恨んで、「あの頃の子供がいれば今のあなたに似てるかもしれない」「いくつくらい」と。
(195-6)

埴谷 獣であるということを超克するのが思想だったわけですから。思想が、我々は獣であるということを明らかにした。思想がなければ、獣は獣であるということも分からないんですよ。(284-5)


@研究室
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by no828 | 2014-04-02 18:26 | 人+本=体 | Comments(0)


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