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思索の森と空の群青

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2014年 06月 13日

これは、対座する者を自らの自我の補強剤としてしまう、実に、さもしい——町田康『へらへらぼっちゃん』

これは、対座する者を自らの自我の補強剤としてしまう、実に、さもしい——町田康『へらへらぼっちゃん』_c0131823_19301717.png町田康『へらへらぼっちゃん』講談社(講談社文庫)、2003年。155(810)


「町田康」は「まちだ やすし」ではなく「まちだ こう」
版元 → 
単行本は1998年に同社

 
 町田康の文章をはじめて読みました。『告白』も単行本で持ってはいるのですが、その分厚さの前に読みはじめることへのためらいが生じ、本書エッセイ集を開きました。おぉ、こういう文章を書く人なのか、こういう考え方をする人なのか、とおもしろく読みました。以下の引用は、語尾を上げる話し方に鉄槌を下している場面です。


 では、なぜこのような話し方をするのであろうか。考えられるのは、「断言を避ける」表現であるということである。つまり、自分はこれを専らビールと呼んでいるが、あなたはなんと呼んでいるか知らぬので確認します。ビール、でよろしいですか。といった相手に対して気を遣った表現であるということである。勿論それもあるであろうが、自分は、そればかりではないと思う。なぜなら、この表現、本質的にモノローグなのである。会話にならぬ表現なのである。まともにいくと「わたしが一番好きなのはビール? みたいなぁ」「知らんがな、自分の好きなもんぐらい自分で決めろ、あほんだら」となるべき、非常に失礼な表現なのである。これは、対座する者を自らの自我の補強剤としてしまう、実に、さもしい、厚かましい、下品な、唾棄すべき、浅ましい、表現なのであって、こんなものは、速やかに根絶せなば相成らぬのであるが、日に日に、このようなしゃべり方をする人が増えているのであり、まことに以て憂れうべき由々しき事態である。
 自分が時代劇を愛好するのは、このような言い方がけっして出てこないということであるが
、この氾濫ぶりをみれば、やがて以下のごときになるかも知れぬ。つまり、奉行「なんかぁ、人殺し? みたいなことって、やっぱりやっちゃいけない? って感じ? だから獄門とかなって欲しい? みたいなぁ」悪人「でもぉ、全然、身に覚え? がないしぃ、証拠がない? って感じなわけだしぃ」奉行「でもぉ、あのときの荒れ寺でぇ、遠山桜が咲いてた? みたいだしぃ、いまから出す? みたいにするからぁ、目ん玉ひん剥いて拝んでほしい? みたいなぁ」「なんか、恐れ入った? って感じ」などと。そうなれば、時代劇ももっと面白くなるのでもっと観たい? って感じぃ。
(50-2)


@研究室

by no828 | 2014-06-13 19:37 | 人+本=体


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