思索の森と空の群青

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2014年 12月 26日

二人でやるものということが前提になっているのは変な話だよね——斎藤綾子・伏見憲明『対話 快楽の技術』

c0131823_19555799.jpg斎藤綾子・伏見憲明『対話 快楽の技術』河出書房新社(河出文庫)、1997年。46(869)


 版元
 ただし、品切・重版未定
 単行本は1993年に学陽書房


 バイセクシュアル(斎藤)とゲイ(伏見)の性についての対話。斎藤の本は未読ですが、伏見のものは『さびしさの授業』(→  )を読んだことがあります。性というのは何なのか、よくわからない。かといって、全部性のせいにしてしまう方向にも行きたくない。

 「*4」のような印のあるものは脚注で、文末「N」は伏見の記述であることを意味します。


斎藤さんの手料理(うまい!)をほおばりながら、これでもかこれでもかというようにお互いの心のパンツを脱がせ合うのは、一回や二回のセックスではけっして得られない濃厚なコミュニケーションだったと思います。(伏見.10)

綾子 やっぱりさ、セックスがギンギンのときって、ふたりの間に力関係が漲っていると思うのよ。〔略〕もうそういうことじゃなくって、お互いがそこにいるっていうことが気持ちよくて、当たり前になっていて、それを良しとしちゃっているとさ、ただ、丈夫でいてくれていたらいいって感じになる(笑)。
憲明 関係の心地よさって、無防備だっていうことだと思うのね。無防備だっていうことと性的にギラギラしていることって、かなり違うよね。
(12-3)

*4 人と人の関係を、「夫婦」とか「恋人」とか「友達」といった既成のカテゴリーに囲い込むのは、関係の可能性を狭めてしまうことにならないか。(N)(15)

*3 ある晩ぼくがゲイバーで飲んでいると、隣でいちゃついている中年男と少年のカップルが「パパ」と「○○君」などと呼び合っていた。ようやるよとウンザリしていたのだが、後で店のマスターに聞いたところ、彼らは本物の親子(!)で、本当にできている(!!)というのだ。なんとシュールな世界だ。その話を後日、宴会で披露して皆を驚かせていると、友人のH子がポツリとつぶやいた。「あたし、お祖父ちゃんとある」。あたりは水を打ったように静まり返った。(N)(41)

憲明 じゃ、恋愛関係、継続的かつ排他的な関係を作っていくとして、やっぱりペニスというのは重要?
綾子 重要だよ。その人を形成している核だと思うときがあるもん。ペニスとその人の人格のバランスみたいなものがあるのよ。たとえば、巨根であることにあぐらをかいて生きていた男なんて、想像するだけで不気味だもん。ペニスに偏り過ぎた自意識というのは御免こうむりたい。大きくて芸がないよりは、小さいけど芸がある方が、まだ会話ができそうじゃない。
(140)

憲明 たとえば、ミスコンの問題でもよく考えるんだけど、ひとつの価値基準でしか人を判断しないということは、これはひどいことだと思うのね。だけど、いろんな価値基準のなかで、たとえばプロポーションがいいとか、目鼻立ちが整っているとかっていう身体の美――といっても美は普遍的な価値ではなく、時代の流行にすぎないけど――を比べるのは別に悪いことだと思わない。〔略〕ぼくは、部分的に人を比べる、そういう差異化ゲームというのは楽しんでしまったほうが得だという気がするのね。だって、音楽の才能がある、走るのが速いっていうのも、あれは部分でしょ、人間の。でも、そっちはちゃんと認められて、人間の身体とか、容姿とかを競うことだけが人格を無視してるといういい方はちょっと違うと思うのね。
綾子 たしかに、何を物差しに美を決めるのかって、問題になってるね。〔略〕
憲明 だから、差別も、ひとつの差別だったら問題だけども、たくさんの差別があって、みんなで差別しあうんだったらいいと思う
綾子 そして個々になるということか。
(154-6)

憲明 今までいちばん性的によかったのは、自意識がすべて抜けていって、単なる粘膜になってる、粘膜としてそこに存在しているという瞬間ね。体験したのはほんの数回だけど。(220)

憲明 でも感染を恐れるあまり、そこに純潔とか貞淑とかっていう考え方が出てきちゃうと、それは違うと思うんだ。「純潔こそがエイズから身を守る方法」みたいな考え方がすでに出てきている*6けど、快楽か死かとか、純潔か感染かといった「究極の選択」を迫られても困る。性愛っていうのは人生のすべてではないけど、かなり大きな喜びのひとつだから、その自由はやはり尊重されないとね。
 もっとも、エイズが人と人の関係性を考え直すいいきっかけになっているという面もある。〔略〕感染を恐れるあまり、肉体的な充実も図れず、不信で他人と関係が持てないなんて、それでは生命は維持できても、人が生きているということにはならないんじゃない?
(276-7)

*6「~どんなに性的欲求や衝動にかられても、性交を行うことは絶対に避けなければなりません。感染しないような性交の仕方を学ぶより先に、性的欲求を抑える理性を学んでください」『学校保健ニュース』(日本写真新聞社発行)より。(N)(276)

憲明 考えてみたら、生殖行為としてならともかく、セックスは二人でやるものということが前提になっているのは変な話だよね。別に二人でなくてもいいわけでしょ。
綾子 ほんとはね。
憲明 なんで二人ということに、みんなこだわっているのかなあ、自分も含めてね。
綾子 うーん、やっぱりセックスって、その気がなくても妊娠しちゃう可能性があるからな。〔略〕
憲明 うん。でも、妊娠の問題は別にしても、どうして複数が悪いことっていうイメージになるんだろうな。楽しいこと、気持ちいいことだったら、みんなで分かち合ったほうがいいって考え方も一方にあってもいいはずでしょ。〔略〕ぼくね、なんで複数がいいかというと、そのほうが早く個人の顔が消えるような気がするわけ。数が多いほうが個人からカテゴリーへ翔びやすい。ぼくにとって、セックスにおける個人の顔はカテゴリーの象徴でしかないから、早くその顔から個人性が抜け落ちて、そして、自分も伏見憲明という個人から単なる雄になりたいという欲求がある。男というカテゴリーとカテゴリー、いい換えれば[男制]のジェンダー・イメージで向かい合いたいんだよね、セックスにおいては。
(223-5)

 個人であるよりもカテゴリーであるほうがよい……むむむ、思考の契機。

@研究室
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by no828 | 2014-12-26 20:10 | 人+本=体 | Comments(0)


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