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思索の森と空の群青

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2015年 02月 13日

自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった——養老孟司『バカの壁』

自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった——養老孟司『バカの壁』_c0131823_18193836.jpg養老孟司『バカの壁』新潮社(新潮新書)、2003年。60(883)


 版元
 先は長いです。→ 


 いまさら——と言っても昨年ですが、と言っても十分遅いですが——読みました。売れた本はすぐには読まない、という態度に出てしまいます。2003年4月10日発行、わたしの手元にあるのは「2003年7月5日 13刷」です。売れた本です。

 期せずして教育に関する記述を、具体的には“反面教師”に関わる講義内容を豊かにするような記述を、読むことができました。“反面教師”について言及する講義は、経験的に、比較的に、学生の反応が強いです(あとは「愛」について)。


 バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。
 本書で度々、「人は変わる」ということを強調してきたのも、一元論を否定したいという意図からでした。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。
(194)


 この「共同体」をどの範囲に想定するか。
 何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間は育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。(112)

 反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にない。なぜそうなったのか。今の教育というのは、子供そのものを考えているのではなくて、先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。子供に顔が向いていないということでしょう。
 よく言われることですが、サラリーマンになってしまっているわけです。サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。
 ところが、教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。
(160)

 そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに、自分を真似ろと言っているわけです。それでは自分を真似ろというほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。結局のところ、たかだか教師になる方法を教えられるだけじゃないのか。
 そういう意味で、教育というのはなかなか矛盾した行為なのです。だから、俺を見習えというのが無理なら、せめて、好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にはあるべきです。
(164)

学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。それが本当の学問です。(164)


結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ(4)

そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。(5)

 ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。〔略〕
 しかし、テレビや新聞を通して一定の情報を得ただけの私たちにはわかりようもないことが沢山あるはずです。その場にいた人の感覚、恐怖だって、テレビ経由のそれとはまったく違う。にもかかわらず、ニュースを見ただけで、あの日に起きた出来事について何事かがわかったかのような気でいる。そこに怖さがあるのです。
(19-20)

 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。(26)

 要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話です。(46)

 繰り返しますが、本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。(48)

 先日、講演に行った際の話です。控室にいらっしゃった中年の男性が、「私は、君子豹変というのは悪口だと思っていました」と言っていた。もちろん、実際にはそうではありません。
君子豹変」とは「君子は過ちだと知れば、すぐに改め、善に移る」という意味です。では何故彼はそう勘違いしたか。「人間は変わらない」というのが、その人にとっての前提だからです。
 いきなり豹変するなんてとんでもない、と考えたわけです。現代人としては当然の捉え方かもしれません。
(57)

 知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。(60)

 そもそも文明の発達というのは、この首から下の運動を抑圧することでもある。つまり、足で歩く代わりに自動車が出てくるというのは、首から下の運動を抑えることなのです。(100)

 また、日本は葬儀の際、もともと土葬だったのが戦後、高度成長期に一斉に火葬に変わりました。江戸時代は火事が起きるというので火葬は禁止だった。(101)

 そうした著書や講演のなかで、彼〔V・E・フランクル〕は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そして、「意味は外部にある」と言っている。「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。(109-10)

 では、利口、バカを何で測るかといえば、結局、これは社会的適応性でしか測れない。例えば、言語能力の高さといったことです。(126)

 私が教養学部の学生のときに赤線が廃止になった。廃止になったその日に、今日で赤線が終わってしまう、というのが教室の話題になっていた。要するに、どういうものであるかというのを自分で体験してみようというのがあった。
 良し悪しはともなく、そうした類の好奇心は当然あったのです。〔略〕己の日常とは別の世界を見て自分で何か考える。こういう姿勢が当たり前だったように思います。
(169)


@研究室

by no828 | 2015-02-13 18:33 | 人+本=体


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