思索の森と空の群青

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2015年 05月 22日

生徒たちはわたしを先生と呼んだ。何が先生なものか!——三浦綾子『生きること思うこと』

c0131823_1852261.jpg三浦綾子『生きること思うこと——わたしの信仰雑話』新潮社(新潮文庫)、1983年。85(908)


 単行本は1972年に主婦の友社
 版元 なし

 続くこと終わらないこと → 


 副題からわかるとおり、エッセイ集。教育に関する言及があるのではないか、という期待から読みました。ありました。読んだのはもちろん、「信仰」とは何なのか、という点への関心からでもあります。「自由」の意味も考えさせられました。選択肢がないことが自由なのかもしれません(前にもそんなことを書いたことがあるような気もします)。


 わたしは満十七にならぬうちに、小学校の教師になった。検定試験を受けたのだから、教授法も、児童心理学も一通り知っているはずであった。だが女学校四年を出ただけで、教生もしたことがなかったのだから、子供の扱い方など、皆目見当もつかない。授業の仕方もわからない。受け持たれた生徒こそ、とんだ迷惑である。〔略〕
 ところで、わたしは女学校時代、音楽は乙だった。今でもわたしは、自分を音痴だと思っている。音痴の教師が、オルガンを弾かずに生徒たちに歌をうたわせた。これはゆゆしき罪である。むしろ音楽など教えないほうがよかった。それでもわたしは、月給三十五円なりをもらっており、生徒たちはわたしを先生と呼んだ。何が先生なものか!
(111)

こわしたら弁償すればいいものではない。こわされたガラスと、弁償したガラスは決して同じものではない。そのガラスは君がこわさなければ、今後百年たっても、こわれずに済んだかも知れない。物といえども、その一つ一つに命があるのだ
 といった。そして、明日までに粘土で花びん〔ママ〕をつくるようにと宿題を出した。少年は一心こめて花びんをつくり、それを教育者のもとに持って行った。教育者はいった。
「君、この花瓶〔ママ〕をこわせるかね」
 少年は、
「いいえ」
 と答えた。
「では、わたしがこわしてもいいかね
いやです
どうして。これより立派な花瓶を弁償して上げるよ
(259)

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 しかしわたしは、これら一連の愚かしい取り越し苦労の中に、人間のすべての苦労が、結局は、これに似たものではないかという一つの教訓を感ずるのである。
いまより後のことは神の領分だ
 と言った人がいる。しかし人間はなんと神を無視していることだろう。神を信じていると言いながら、わたし自身、けっこう自分の知恵に依り頼んでいる。
(15)

 宗教を持たないわたしにとっては、神もまた、宗教もまた、人間がよりよく生きるための人間の知恵、「自分の知恵」なのではないかと思われます。

「いいえ、いいんです。わたしさえじっとがまんをしていれば」
 と、いうべきことも率直にいわず、いつも悲しげに生きるタイプ、これもまた一つの加害者タイプといえるのではないだろうか。
(28)

 わたしは、天性、無頓着なので、人に着る物をあげることも、平気だったが、これは、言って見れば、石ころをあげるのと同じ気持ちである。三浦も着る物を人にあげるが、彼の場合は大事にしている物をあげるのである。彼のほうが、真の意味で、着る物に対して、自由と言えるような気がする。
 着る物を大事にしながらも、それに執着しないということは、その人の全生活にかかわる問題であろう。〔略〕衣、食、住の現実的な目に見える生活の中で、勤勉に注意深く生きながらも、それらにけっして執着することなく、神のためには「すぐ網を捨ててイエスに従った」キリストの弟子のごとく、全生活を神にささげ得るという、自由な従順な生き方こそ、真にたいせつなのである。
(37-8)

 もしほんとうにすべての人の恩を覚えているとしたら、わたしは三百六十五日、一日二十四時間を使って、お礼回りに歩いても回りきれないはずなのだ。そんな、ごく当然なことにも気づかずに、自分がさも恩を知っているようなつもりで暮らしてきたのだ。
恩返しをしたと思うことが恩を忘れたことである
 というようなことを、パスカルは言っている。
(84)

〔略〕家を持っていない修道女がうらやましかった。この人たちは、与えられた仕事だけをしていればいい。うらやましいとさえ、わたしは思ったのだ。それは、修道女の生活は「この世からの逃避である」という誤解にもとづいたためであった。
 ある時わたしは婦長に、はなはだぶしつけな、そして幼稚な質問をした。
「婦長さんは、この病院から月給をいただいているのですか」
 彼女はさわやかに笑って、月給は出ているが、全部修道院にそっくりそのまま納められるのだと言った。
「じゃ、お小遣いは持っていないんですか」
 わたしは驚いて聞いた。彼女は、金の必要はないと言った。〔略〕
スーツを着たいと思いませんか
持っていたら、さぞ不自由でしょう
 この答えにわたしは驚嘆し、己れを恥じた。
男性に心ひかれませんか
神が一番すばらしいと知ったら、人間はやはり最もすばらしいものに心ひかれるのが、自然ではないですか
(92-3)

 いつか川谷牧師が、説教のなかでこういわれたことがある。
人と人との関わりは、弱い者が強い者に相談をする、頼む、依頼する、という形で出発することが多い
(153)

 わたしは自分が、何をこの人生において望んでいるか、もっときびしく自分に問いなおしてみる必要があると思った。もし自分の望んでいることが低ければ、人への親切も、低い次元でしか、なすことができない。〔略〕
 わたしたちは、しばしば与えるべき時にこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよいと思われたくて与えてしまう。与えるにも、与えないにも、自己本位にしかあり得ないとは何と情けないことであろう。なぜそうなのであろう。それはやはり、自分自身のしてほしいと望むことの低さにあるにちがいない。
(158)

 K子は、級友のうちで一番成績が悪かった。字を一番憶えていなかった。しかし、どの級友よりも彼女は数多く、わたしに見舞状をくれた。自分の知っている限りの字を、かき集めるようにして書いた手紙をくれた。
 彼女は、字を沢山は知らなかった。だが、
人は何のために字を学ぶか
 ということだけは、知っていたと、わたしは思った。〔略〕
信者は何のために聖書を学ぶか
 という問に、全生活で答えられるものを、自分は本当に持っているかと、K子によって考えさせられるのである。
(272)


 大事にしながらもそれに執着しないとは、一体どういうことなのか、まだよくわかりません。これは、信仰がないとなしえないことなのでしょうか。その境地を想像してみたいです(まずは)。

@研究室
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by no828 | 2015-05-22 18:20 | 人+本=体 | Comments(0)


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