思索の森と空の群青

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2015年 06月 17日

おれは自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることが——三浦綾子『塩狩峠』

c0131823_1910277.jpg三浦綾子『塩狩峠』新潮社(新潮文庫)、1973年。87(910)


 単行本は1968年に同社
 版元

 峠は越えているのですが…… → 


 鉄道職員 水野信夫は結納のために札幌へ向かう。途中、塩狩峠にて列車が暴走し、水野は自らの身を挺して列車を止めて、そして死ぬ。結納を前にした、決意の死である。

 というのがあらすじで、この物語にはモデルがいます。長野政雄という人物です。水野のように死んでしまった長野はしかし、乗客のために命を投げ出したわけではないという説もあるようです。本書はあくまで物語です。

 水野の生い立ち、家庭の事情に、教育について考える契機を見出すことができます。この物語にもキリスト教が登場します。


「いいか。人間はみんな同じなのだ。町人が士族よりいやしいわけではない。いや、むしろ、どんな理由があろうと人を殺したりした士族の方が恥ずかしい人間なのかも知れぬ(18)

(もし自分だったら……)
 読書は、人と自分の身をおきかえることを、信夫に教えた。
(99)

「人間はいつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すほどのことはわたしにはない。わたしの意志はすべて菊が承知している。日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。
 わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。
とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になることと思う」
(142)

(おれは自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることができるだろうか)
 信夫は、父の死を悲しむよりも、むしろ父の死に心打たれていたのである。
(145)

「そうか、吉川君でも死ぬのが恐ろしいのか」
 信夫はホッとしたように吉川をみた。二人は顔を見合わせて笑った。
「吉川君と話していると気が楽になるなあ」
「そうか。しかしそれは楽な気がするだけだよ。ほんとうに気が楽になったのとはちがうよ
「そうだろうか」
「そうさ。ただこうして話し合っただけで、死などという問題が解決されるわけはないじゃないか。やはり何のために自分は生きてるのだろうかと思うと、何のためにも生きていない気がして淋しくなるだろう。生きている意味がわからなきゃ、死ぬ意味もわかりはしない。たとえわかったところで、安心して死ねるというわけでもないさ」
(207-8)

 そう思いながらも、あのふじ子が死を目の前にして、
「確かに死はすべての終わりではない」
 と、信ずることができたなら、それはどんなに大きな力になることだろうかと信夫は思った。そして自分では信じていないその言葉を、ふじ子に告げてやりたいような気がしてならなかった
(だがはたして、その言葉が人間にとって、ほんとうに生きる力となるだろうか。生きる力はいったい何なのだろう)
(221-2)

「みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。〔略〕何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。〔略〕悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる」(271)

先日、ふじ子がこんなことを言った。
「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様がみて喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの
 この言葉が、信夫の心の中にあった。
(274)


*「いざり」(25)……「躄」。足が不自由で立てない人。膝や尻を地面に着けたまま進むこと。
 「万年青(おもと)」(64)……園芸植物の一種。

@研究室
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by no828 | 2015-06-17 19:18 | 人+本=体 | Comments(0)


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