思索の森と空の群青

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2015年 07月 02日

いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の——平田オリザ『わかりあえないことから』

c0131823_19465663.jpg平田オリザ『わかりあえないことから——コミュニケーション能力とは何か』講談社(講談社現代新書)、2012年。91(914)


 版元

 早く終わらせることから →  


 コミュニケーションとは何か、多文化共生とは何か、といったことが論じられています。その関係で教育にも言及されています。教育とは演じられる人を作ることである——。平野啓一郎の『私とは何か——個人から分人へ』と併せて読むとよいと思いました。『私とは何か』はこのブログにはアップロードしていないようですので(検索しても出てこない。わが事ながら)、『ドーン』へとリンクしておきます。分人を作ることが教育の目的だ、ということになるでしょうか。といったことを共生に関するシンポジウムのアンケートに書いたことがあります(応答はありませんでしたが)。

 教育の冗長性というか、教育は一回的ではないという点も強調されていたように受け取りました。


教育の役割は、社会の要請に応じて、最低限度の生きるためのスキルを子どもたちに身につけさせて世間に送り出すことだからだ。(34)

 私が公教育の世界に入って一番に驚いたのも、実はこの点だった。教師が教えすぎるのだ。もうすぐ子どもたちが、すばらしいアイデアにたどり着こうとする、その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えた気になれるし、体面も保てるからだろう。(47)

 私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目〔演劇、図工、音楽、スピーチ、ダンスなど〕と「ことば」〔文法、発音・発声、英語、韓国語、中国語など〕という科目に分けることを提唱してきた。(59)

一回のワークショップで教えなければならないことなど、何もない(73)

ダブルバインドをダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。
 だから異文化理解の教育はやはり、「アメリカでエレベーターに乗ったら、『Hi』とか『How are you?』と言っておけ」という程度でいいはずなのだ。
(149)

 社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。(183. 傍点省略)

「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の目的ではなかったか。あるいは、できることなら、いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。
(220)

 人間は、演じる生き物なのだ。
 進化の過程で私たちの祖先が、社会的役割を演じ分けるという能力を手に入れたのだとするならば、演じることには、必ず、なんらかの快感が伴うはずだ。
 だから、いい子を演じるのを楽しむ、多文化共生のダブルバインドをしたたかに生き抜く子どもを育てていくことは夢物語ではない
(229)


これまでの表現教育というものは、教師が子どもの首を絞めながら、「表現しろ、表現しろ!」と言っているようにしか見えない。そういう教員は、たいていが熱心な先生で、周りも「なんか違うな」と思っていても口出しができない。
 私は、そういう熱心な先生には、そっと後ろから近づいていって肩を叩いて、「いや、まだ、その子は表現したいと思っていませんよ」と言ってあげたいといつも感じる。
(20)

「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
 いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。〔略〕
 おそらく、一番いいのは体験教育だ。〔略〕自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない
(25-6)

芸術家は答えを先に知っている。工学者は、それを解析するだけでいい(76. 石黒浩の発言)

「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。
(95-6)

「対話」は、AとBという異なる二つの論理が摺りあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。まずはじめに、いずれにしても、両者ともに変わるのだということを前提にして話を始める。(103)

 後発の国民国家は、すでに答えの出ている近代国家のシステムを、合理的に、エッセンスだけを模倣しようとする。そこでは、無駄は排除され、スピードだけが要求される。
 冗長性が高く、面倒で、時間のかかる「対話」の言葉の生成は、当然のように置き去りにされた。強いリーダーシップを持った為政者にとっては、「対話」は無駄であり、また脅威でさえあるからだ。
 そうして強い国家、強い軍隊はできたかもしれないが、その結果、異なる価値観や文化を摺りあわせる知的体力が国民の間に醸成されることはなく、やがてそれがファシズムの台頭を招いた
(127-8)

 さて、では、エレベーターの中で見知らぬ人と挨拶をするアメリカ人は、とてもコミュニケーション能力が高くて、私たち日本人はコミュニケーション能力のないダメな民族なのだろうか。私は、どうも、そういう話ではないような気がしている。
 アメリカは、そうせざるをえない社会なのではないか。これは多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているではなく)ということを、早い段階でわざわざ声や形にして表さないと、人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。一方、本書でも繰り返し書いてきたように、私たち日本人はシマ国・ムラ社会で、比較的のんびり暮らしてきたので、そういうことを声や形にして表すのは野暮だという文化の中で育ってきた。
(144)

 しかし、同じだけタバコを吸っていても癌になる人もいれば、ならない人もいる。遺伝子の研究などがもっと進んでいけば、その説明はもう少しましにはなるのだろうが、やはり究極のところでは、「Why」に答えることは難しい。なぜなら、人間存在それ自体に、理由がないのだから。(180)


@研究室
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by no828 | 2015-07-02 20:05 | 人+本=体 | Comments(4)
Commented by hayakawa at 2015-07-06 20:50 x
「教育」を生業とする立場になると、あらためて考えさせられるものだと。
情けないことだが、当事者になってみないと当事者意識はやはり生れ出ないものかと思いながら引用を読んでおりました。

演劇に関わったものとして平田オリザはもちろん無視できない存在だけれども、「リアルな会話」を演劇の舞台で再現しようとしてきた平田オリザが教育を「演じる」という言葉で表現するところになんだか発見の感覚を得た気持ちになりました。
Commented by no828 at 2015-07-09 18:53
> hayakawa 氏

 ここでの引用はまずは自分のためではあるものの、それが誰かの思考の契機になったとし(てそのことを伝えてくれ)たらそれはとてもうれしいことであって、こういうつながり方には安堵を感じます。

“よい教育とは何か”を考えながらそれを学生に向かって講じているわけですが、“では自分のしているこの教育はよい教育なのか”と、教育についての教育とはすべて再帰的であって、自分で自分を挫かせるようなことをしていると頻繁に感じます。

 劇作家としての平田オリザのことは何も知らないに等しくて、素直に“そうなんだ”と思いながらコメントを読みました。
Commented by at 2015-07-13 17:59 x
演じるのも疲れたし
かといって、「本当の自分」とやらもとうてい見つけられそうになし

教育って、何でしょう
学校あっての教育?

ホームスクールにも興味があって、
いろいろ考えたりもするけれど
なかなか先に進めないのです。

まったく関係ないけれど
(関係ないように思えるけれど、そうではないかもしれないし)
最近田村由美の7SEEDSを勧められて読みました。まんがですが、まだまだ終わってないのに28巻ありますが、
いろいろ考えさせられる内容です。
Commented by no828 at 2015-07-16 20:36
> ち

 久しぶり。演じるのに疲れない子どもを作るのが教育だと言う平田オリザは、「本当の自分」はないとも書いていました。たまねぎのようなもので、皮を剥いていっても何も残らない。

 しかし、「本当の自分(と思えるもの)」を作ることも教育にはできるとも考えられるよね。それがあったほうがよく生きられる人もいるはずです。

 教育と学校教育は違うけれども、しかし社会に学校教育はすでに深く埋め込まれていて、ホームスクールに関心はあるけれども踏み出せないという感覚は、だからたぶん想像できています。

 また話したいね。

『7SEEDS』は知らなかったのだけれど、コメントを読んで前のめり気味になったので、古本屋でごそっと買ってこようかなあと思いました。


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