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思索の森と空の群青

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2015年 09月 25日

「私にもそういう風景はある」「そいつを大事にした方がいい」——村上春樹『1Q84』

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村上春樹『1Q84』BOOK1-3、新潮社、2009-10年。13(935)

 版元 → BOOK1 BOOK2 BOOK3

 2つの想定に勝手に親近感を抱きました。1つは、青豆の父方の祖父は福島県の生まれで、「青豆」という名字はそこに実際にある、という想定で(BOOK1: 12-3)、もう1つは、天吾は筑波大学第一学群自然学類数学主専攻という「奇妙な名前のついた学科を卒業し」た、という想定です(BOOK1: 44)。わたしの名字はありきたりでも同じ県の出身で、第一学群ではないけれどもわたしも同じ大学の出身です。


○BOOK1
「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。(23)

「もちろん。それだけでは足りない。そこには『特別な何か』がなくてはならない。少なくとも、何かしら俺には読み切れないものが含まれていなくてはならない。俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ」(40)

 職業的小説家になることを自分が本当に求めているのかどうか、それは本人にもわからない。小説を書く才能があるのかどうか、それもよくわからない。わかっているのは、自分は日々小説を書かずにはいられないという事実だけだった。文章を書くことは、彼にとって呼吸をするのと同じようなものだった。(44)

 次におこなうのは、その膨らんだ原稿から「なくてもいいところ」を省く作業だ。余分な贅肉を片端からふるい〔ママ〕落としていく。削る作業は付け加える作業よりはずっと簡単だ。その作業で文章量はおおよそ七割まで減った。一種の頭脳ゲームだ。増やせるだけ増やすための時間帯が設定され、その次に削れるだけ削るための時間帯が設定される。そのような作業を交互に執拗に続けているうちに、振幅はだんだん小さくなり、文章量は自然に落ち着くべきところに落ち着く。これ以上は増やせないし、これ以上は削れないという地点に到達する。エゴが削り取られ、余分な修飾が振い〔ママ〕落とされ、見え透いた論理が奥の部屋に引き下がる。(129)

「自分が排斥されている少数の側じゃなくて、排斥している多数の側に属していることで、みんな安心できるわけ。ああ、あっちにいるのが自分じゃなくてよかったって。どんな時代でもどんな社会でも、基本的に同じことだけど、たくさんの人の側についていると、面倒なことはあまり考えずにすむ」
少数の人の側に入ってしまうと、面倒なことばかり考えなくちゃならなくなる
「そういうことね」と憂鬱そうな声で彼女は言った。「でもそういう環境にいれば少なくとも、自分の頭が使えるようになるかもしれない
「自分の頭を使って面倒なことばかり考えるようになるかもしれない」
「それはひとつの問題よね」
「あまり深刻に考えないほうがいい」と天吾は言った。
(137)

 青豆は筋肉マッサージが得意だった。体育大学では誰よりもその分野での成績がよかった。彼女は人間の身体のあらゆる骨と、あらゆる筋肉の名前を頭に刻み込んでいた。ひとつひとつの筋肉の役割や性質、その鍛え方や維持法を心得ていた。肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺るぎなき信念だった。(241-2)

「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。言っていることはわかるかな?」(267)

日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことは——もしそうする必要があるならということだが——大人たちがやればいい。(273)

「何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんてもらいたくないという心情も理解できます。しかし混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。そのためのものです。正しいことであれば、その気持ちが純粋であれば何をしてもいいということにはなりません。わかりますか?」(330-1)

この現実の世界にはもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」(422)

正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ(459)

「ギリヤークというのは、ロシア人たちが植民してくるずっと前からサハリンに住んでいた先住民なんだ。もともとは南の方に住んでいたんだけど、北海道からやってきたアイヌ人に押し出されるようなかっこうで、中央部に住むようになった。アイヌ人も和人に押されて、北海道から移ってきたわけだけどね。チェーホフはサハリンのロシア化によって急速に失われていくギリヤーク人たちの生活文化を間近に観察し、少しでも正確に書き残そうと努めた」(463)

 疑問が多すぎる。「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」と言ったのはたしかチェーホフだ。なかなかの名言だ、しかしチェーホフは作品に対してのみならず、自らの人生に対しても同じような態度で臨み続けた。そこには問題提起はあったが、解決はなかった。自分が不治の肺病を患っていると知りながら(医師だからわからないわけがない)、その事実を無視しようと努め、自分が死につつあることを実際に死の床につくまで信じなかった。激しく喀血しながら、若くして死んでいった。(472)

「覚えてない?」
あいつらはね、忘れることができる」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない
「もちろん」と青豆は言った。
「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
「大量虐殺?」
やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ
(525. 傍点省略)


○BOOK2
さよならを言うのはあまり好きじゃない」とタマルは言った。「俺は両親にさよならを言う機会さえ持てなかった」(31)

「チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくり立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」
「どういう意味?」
 タマルは青豆の正面に向き合うように立って言った。彼の方がほんの数センチだけ背が高かった。「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」
(33)

「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する(234)

天吾にとって性欲とは、基本的にはコミュニケーションの方法の延長線上にあるものだ。だからコミュニケーションの可能性のないところに性欲を求めるのは、彼にとって適切とは言いがたい行為だった。(296)

「ただね、そいつが脇目もふらずネズミを木の塊から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
「それが私たちの生きるための根拠みたいになっているということ?」
「あるいは」
私にもそういう風景はある
そいつを大事にした方がいい
(371)


○BOOK3
「私は孤独じゃないと思う」と青豆は告げる。半ばタマルに向かって、半ば自分自身に向かって。「ひとりぼっちではあるけれど、孤独ではない(48)

そして他人が語ることに——それがたとえどんなことであれ——注意深く耳を澄ませるのを習慣とした。そこから何かを得ようと心がけた。その習慣はやがて彼にとって有益な道具になった。彼はその道具を使って貴重な事実を発見した。世の中の人間の大半は、自分の頭でものを考えることなんてできない——それが彼の発見した「貴重な事実」のひとつだった。そしてものを考えない人間に限って他人の話を聞かない(191)

 それを聞いて女教師は満足そうに微笑んだ。小さな瞳の中で何かが陽光を受け、遠くの山肌に見える氷河のようにきらりと光った。少年時代の天吾を思い出しているのだ、と牛河は思う。二十年も前のことなのに、彼女にはきっとつい昨日の出来事のように感じられるのだろう。
 津田沼駅に向かうバスを校門の近くで待ちながら、牛河は自分の小学校の教師たちのことを考えた。彼らは牛河を記憶しているだろうか? もし記憶していたとしても、彼のことを思い出す教師たちの瞳に親切な光が浮かんだりすることはまずあり得ない。
(209)

「しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。よく覚えておいた方がいい」
「誰がそんなことを言ったの?」
「ヴィトゲンシュタイン」
(228)

「教えるのはきらいじゃない。場合によっては面白くさえある。でも長いあいだ人にものを教えていると、自分がだんだんあかの他人みたいに思えてくる(241)

人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかりと開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」
 天吾は肯いた。
「穴を開けっ放しにしてはおけない」と安達クミは言った。「その穴から誰かが落ちてしまうかもしれないから」
「でもある場合には、死んだ人はいくつかの秘密を抱えていってしまう」と天吾は言った。「そして穴が塞がれたとき、その秘密は秘密のままで終わってしまう」
「私は思うんだけど、それもまた必要なことなんだよ」
「どうして?」
「もし死んだ人がそれを持って行ったとしたら、その秘密はきっとあとには置いていくことのできない種類のものだったんだよ」
「どうしてあとに置いていけなかったんだろう?」
 安達クミは天吾の手を放し、彼の顔をまっすぐに見た。「たぶんそこには死んだ人にしか正確には理解できないものごとがあったんだよ。どれほど時間をかけて言葉を並べても説明しきれないことが。それは死んだ人が自分で抱えて持っていくしかないものごとだったんだ。大事な手荷物みたいにさ
(483-4)


 別様の世界を想像することの意味は何か。一様にあるこの世界はこのようになければならないわけではない、と思わせることか。別様の世界がつねに望ましい世界かどうかはわからないし、村上春樹の小説にもそのようには描かれていない。それはただ不思議な世界で、しかし不思議な世界だと認識しうるほどには普通の世界である。このようになければならないわけではない世界を少しよくするためには、この世界を丁寧に生きる以外にはないのかもしれない。

@研究室

by no828 | 2015-09-25 20:06 | 人+本=体


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